南無阿弥陀仏のいのち

著者:荒山 信(名古屋教区惠林寺住職)


親鸞聖人は縁によって生きる者を「凡夫」と教えてくださっています。「縁」とは条件です。つまり条件次第で何をしでかすかわからない者を「凡夫」といいます。そして自らがその「凡夫」であることに深く気づいた者を親鸞聖人は「悪人」とおっしゃいます。また、自分の意志に従って、どのようにも生きていけると思っている者を「善人」とおっしゃいます。そして南無阿弥陀仏のいのちは「悪人」の大地となり、悪人こそ支えきろうとしてくださるのだと親鸞聖人は教えてくださっています。


私自身、忘れられないことがあります。それは私が親しくさせていただいている中学校の先生からお聞きしたことです。不登校の生徒さんが、家族から言われて一番つらくなる言葉は、一番は「がんばれ」、二番は「気にするな」、三番は「強くなれ」だそうです。つまり元気になってもらおうと、こちらが良かれと善意で言ったことが相手を逆に追いつめていく言葉になるのだそうです。私はその話を聞いた時、本当にドキッとしました。つまり、身におぼえがあるからです。子どもが学校で何かあって落ち込んで帰ってきた時に「がんばれ、気にするな、強くなれ」と言ってきたからです。それは、私自身、人間は自分の意志でどのようにでも生きていけるという答えをもっていたからです。まさしく「善人」の姿です。その答えを子どもにおしつけていくのです。親は善意でしているつもりでも、子どもからすれば「善魔」になるのでしょう。善意が相手を追いつめる魔となるのです。悪魔ではなく善魔です。


ある先輩は、「今は悪魔の時代ではなく、善魔ばかりの時代になった」とおっしゃっていました。確かに「がんばれ」という言葉は、力のある言葉であり、ある意味、万能な言葉です。病人を見舞いに行く時なども「がんばってください」と励ますことがあります。しかし、人間は条件次第で、いくらがんばろうとしても、がんばれない時もあります。少し変な言い方をするようですが、「がんばれないあなたを大切にしたい」あるいは「ちっとも強くなれない、あなたといっしょに生きていきたい」という言葉を、案外子どもは待っているのかもしれません。つまりこちらが「善意」で相手に関わろうとする時があぶないのです。なぜならば、人間は悪意でしたことならば反省できるということもありますが、善意でしている時の、その自分自身は、なかなか反省ができないからです。


ある研修会がひらかれた時でした。最後に、講師の先生にお礼をお渡しし、「先生、本当にお礼が些少で申し訳ありません」と言ったその時です。先生に「いらんこと言わんでもいい、それが善人の言葉なんです。わたくしは精一杯のお礼をいただいたと思っております」と、これも忘れられない言葉です。へりくだったり、謙遜するという形で、実は自分をたてているのです。それで結局は、相手を信頼してないんです。わが身の姿を、その先生に見すかされたようで本当に恥ずかしくなりました。と同時に、私のことを、私以上に、私よりも深く知ってくださっている世界があるんだというおどろきがありました。その世界を「南無阿弥陀仏のいのち」というのでありましょう。


自分一人では自分のことはわかりません。人とのかかわりあい、つながりの中で自分が見えてくるのです。凡夫の大地になろうと、南無阿弥陀仏のいのちは、歴史を越え、文化を越え、言葉を越え、私の中にはたらき、願いかけてくださっているのです。


『僧侶31人のぽけっと法話集』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2020年版④)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2020年版)をそのまま記載しています。

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