いだかれてありとも 知らずおろかにも われ反抗す 大いなるみ手に

法語の出典:九條武子

本文著者:白山勝久(東京教区西蓮寺候補衆徒)


関東大震災の折、九條武子は、自身も被災者でありながら、負傷者や孤児の救援活動に当たられました。


九條武子は、親鸞聖人の教えに基づいた教育活動や救援活動に尽力された方です。その活動の最中には、阿弥陀如来や親鸞聖人への信順以上に、「どうして人間はこれほどまでに苦しまねばならないのでしょうか」という迷いや不審が彼女の心を覆うこともあったことでしょう。


そのことを思う時、親鸞聖人の姿が思い起こされます。親鸞聖人も念仏をよりどころとしながら、時には心揺らぐことがありました。越後から関東(茨城県)の地へ向かう道中、天災や飢饉に苦しむ民衆の姿を目の当たりにしました。苦しむ人びとの救済のため、佐貫の地で「浄土三部経」の千部読誦を思い立ちます。しかし、読誦を始めて四、五日経った時、自分のしていることに疑問をもちます。「阿弥陀如来にすべてをおまかせし、ただ念仏の教えを法然上人よりいただいたというのに、自分の思いはからいで念仏を称えていた……」。親鸞聖人は「浄土三部経」の読誦を中止し、その後関東へと向かわれました。


「阿弥陀如来より大いなる慈悲をいただいているのに、これ以上何を求めようというのか」。親鸞聖人は、阿弥陀如来を信じると誓いながらも疑義が生じた自身の心に迷いを感じました。九條武子も救援活動を続ける中で、親鸞聖人と同様の疑問や迷いを感じられたことでしょう。


成長過程において「反抗期」と呼ばれる時期があります。けれど、「反抗」とは、親の目から見ての言葉です。子どもにしてみれば「反抗」ではなく「自己主張」であり、成長過程において欠かせない時期です。九條武子が「われ反抗す」と表現した自身の姿は、阿弥陀如来の眼には衆生の自己主張に見えたことでしょう。悩み苦しみの中にありながら「わたしはここにいます」と自己主張している衆生の声を聞き、阿弥陀如来は憐愍してくださっています。


宗教の信仰・信心といえば、「私は、あなた(本尊や信仰対象)のことをこれほどまでに信じています」と、一般的にはその本気度や深化が求められます。けれど一方で、「私はあなたのことを信じています」と、自分を疑うことなく言えてしまうことの恐さもあります。


真宗の信仰・信心は、大いなるみ手に反抗する自覚をとおして、阿弥陀如来と出遇えるということがあります。「反抗」の自覚は、「おろか」な私の自覚です。そして実は、大いなるみ手にいだかれてあることの自覚でもあるのです。


東京の築地本願寺境内の「九條武子夫人歌碑」には、彼女の歌が彫られています。


おおいなる もののちからに ひかれゆく
わがあしあとの おぼつかなしや


「自身で振り返る人生の足跡はおぼつかないものだけれど、他力に導かれた生涯でした」。反抗をとおしてこそ紡がれた言葉です。親鸞聖人の「恩徳讃」に感じられる懺悔と讃嘆の響きがあります。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2020年版【5月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2020年版)発行時のまま掲載しています。

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