今日のことば 希望を語るようでいて、その実、何も語っていない言葉があります。「無限の可能性」もその一つでしょう。「あなたには無限の可能性がある」とはよく聞く表現です。もちろんこの言葉が有効であり、必要な場合もあるでしょう。しかし、おそらくは気休め以上のものにはならないと思われます。なぜならば、私たちは限り有る命を生きる身、つまり有限であるからです。ですから、当然可能性も有限なのです。いくら「無限の可能性をもつ私」だと信じても、それは夢ですから、いつか覚める時がきます。自分の可能性にも、命にも限りがあったという現実に直面する時、人はどのように生きることができるのでしょうか。

中島みどりさんはご主人と二人のお子さんと一緒に暮らしていました。そのように何気なくも幸せだった暮らしに、現実が突然に襲いかかります。みどりさんの体は、悪性リンパ腫、つまり癌に冒されていたのです。

自分の病を聞かされた時の気持ちは、私の想像力ではとても追いつけません。「なぜ、私が」と何度も問い返したと手記にはあります。しかし、その問いには残念ながら答えが出せないのです。死を意識させられるということは、もっと生きたいという自分自身の本能的な要求が、他でもない自分の体によって拒否されたことを意味します。それは最も過酷な自己否定でしょう。

しかし、その自己否定の向こう側から聞こえてきたのは、自己肯定の声でした。「私が私であってよかったといえるあなたになれ」─中島さんには、この声が聞こえてきたのです。誰の声か。それは自分の声ではなく、親鸞さまの声でした。そして別の日の手記には阿弥陀さまもまた「その身そのままでよい」と呼び続けてくれていたとあります。

幼い子どもたちを残してこの生命を終えねばならないという容赦ない現実。しかし、その現実をとおして聞こえてきたのは真実からの声だったのです。有限な人間の声ではなく、阿弥陀という無限からの声だったのです。私たちが聞きたかったのは、限りなき自分という、ありもしない私を夢見させる言葉ではなく、ありのままの自分を肯定する声だったのです。

もちろんこの声を聞いて不安が消えたわけではありません。手記には死への不安、家族への悲しみが連綿と綴られています。しかし、一方では阿弥陀さまの声を聞いたことによる安心も述べられています。中島さんは阿弥陀さまを「大悲の親」と言います。子どもが親に寄り添われ安心して生きるように、中島さんは阿弥陀の大悲に包まれて浄土に生まれるという安心を得たのです。仏教で信心を得ることを「安心」と呼ぶことがあらためて思われます。有限の命を本当に痛感する時に、すでに無限の命に抱かれていたことを人は知るのでしょう。

みどりさんはお子さんに言います。「あなたたちが精一杯生きて、この世が終わったら母の待つお浄土(阿弥陀さまの国)に生まれてきてくださいね。また会える世界があるということは幸せなことです」と。浄土でまた会える。これ以上に、人の希望、そして確信を述べる言葉があるでしょうか。

『今日のことば 2015年(7月)』 「私が 私であってよかった といえる あなたになれ」
出典:『白蓮華のように』