2002真宗の生活

2002(平成14)年 真宗の生活 9月 【浄土(じょうど)

()たされた時としての「今」>

浄土(じょうど)とは、名詞(めいし)ではなく動詞(どうし)である」という言葉を聞いたことがあります。つまり「(つち)(きよ)める」はたらきを意味する言葉なのでしょう。浄められなければならない「土=(場所)」とは、この私のいる世界のことだと思います。「浄める」とは、その世界が教えに照らされるということです。お浄土は、すでに浄められた場所なのですから、あえて浄める必要もありません。真実の浄土には「浄土」という言葉もないのでしょう。

浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、死んでから素晴(すば)らしい世界であるという極楽(ごくらく)へいくという宗教ではありません。まさに今、お浄土から立ち(あらわ)れた如来(にょらい)出遇う(であ)うということです。如来に出遇った人には、この世の苦しみを如来と二人三脚(ににんさんきゃく)背負(せお)って生ききる力が与えられます。ですから、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は「臨終(りんじゅう)まつことなし、来迎(らいごう)たのむことなし」(『末燈鈔(まっとうしょう)』・聖典600頁)とおっしゃるのです。今まさに如来に出遇っているからこそ、臨終来迎(りんじゅうさいごう)を待つ必要がありません。

如来に出遇うことがないと、過去を後悔(こうかい)の種にし、未来には不安をいだく生活しかありません。そんな不安な人問に「純粋(じゅんすい)な今」を生きる力を如来は与えます。時間は浄土から流れてくるのです。当来の浄土から、満たされた時として「今」を(うるお)し続けているのです。

『真宗の生活 2002年 9月』【浄土】「満たされた時としての「今」」