善財童子は『華厳経』という経典に登場する童子(こども)の名前です。もちろん善財童子は架空の人ですが、決してこの世に存在しなかった人でなく、むしろ、どんな人も、心の奥深くに善財童子と同じ心をもって生きているのではないでしょうか。
人はなんのためにこの世に生まれてきたのでしょうか。善財童子はこの問いをもって、53人の善知識(先生)を訪ねて旅をします。人生は一生かかって、人間を修行していく旅のようなものでしょう。修行といっても特別な行をつむのではありません。つらいことや、悲しいことや、腹がたつとき、それらはそのまま、人間である私というもののすがたを知らせてくれるかけがえのない修行の場なのです。
「私は今年、中学2年生になりました。中学2年生にもなると、洋服やら化粧品やら、欲しいものがいっぱいでてきます。でも、私の両親は、私の欲しいものの十分の一も買ってくれません。私の心は不満だらけで、いつも両親に反発する日々でした。そんなある日、クラスで身体に生涯をもっている子どもたちの学校を訪問しました。そこで、いろんな生涯をもちながら、額から汗を流しながら懸命に生きている私たちと同じ年代の子どもたちとであいました。私は今まで、身体に障害をもっている人たちのことを不自由で不幸だと思っていましたが、そうではありませんでした。私の欲しいものをなんにも買ってくれないといって両親に反発し、不平不満の日々をおくっていた私の生き方のほうが問題でした」
これはラジオで紹介された中学2年生のK子さんが書いた作文です。K子さんは障害をもった子どもたちと向かいあったとき、自分の生き方のお粗末さと、身勝手さに、はじめて気づかされたのでしょう。
善財童子は53番目の先生に出遇ったとき、悟りをひらかれたとあります。K子さんも障害をもった子どもたちと出遇ったとき、自分のほんとうのすがたを知らされたのでしょう。ほうとうの私に出遇わないと、決して心が充たされないところに人間のいのちの尊さがあります。
「ほとけの子」 おしえのしおり 善財童子
『であい ―善財童子―』 (金沢教区本誓寺住職 松本梶丸)