おばあちゃんからの贈り物
(三池 大地 教学研究所助手)
祖母は、私をやさしく愛しんでくれた。私が幼稚園へ通っているとき、愛車のバイクにまたがり、手をふって迎えに来てくれた。ヘルメット越しに見える祖母の顔は凛々しかった。家に帰れば、得意の裁縫やあみ物を教えてくれた。料理も得意で、キッチンは祖母の領域のような雰囲気があった。
認知症を患ってからは、徐々に言動が荒々しくなり、被害妄想もたびたびあった。転倒した拍子に骨折してから、医療をそなえた介護施設へ入ることになった。亡くなる三年ほどまえ、お見舞いに行くと「どちらさまですか」と尋ねられた。私を忘れたことへの衝撃と、胸を締めつけられる悲しみとが込みあげてきたことは忘れられない。
昨年の三月、母から受けた危篤の知らせ。急ぎ実家へ向かったが、私と祖母との再会は、生前にはかなわなかった。生気を感じとれないからだの冷たさ。私が何度呼びかけても、祖母からの反応はかえってこない。ただただ涙がこぼれ落ちた。そして、私の祖母の記憶は、これから更新されることがないという虚無感を強烈に覚えた。
そのようなときに、宮城顗先生の言葉に出あった。
宮城先生は、さまざまな仏弟子を解説する著書のなかで、「尊者舎利弗」について言及している。その一節では、釈尊の死期がそう長くないと感じた舎利弗が、釈尊よりもさきに入寂した兄弟子に倣い、同様の決断をする。それを認めた釈尊は、舎利弗亡きあと、比丘たちに対して「舎利弗の遺骨を見よ」と告げた。このような説話にふれたのち、先生はその意義を次のように受けとめている。
悲しみにおいて、あらためて、贈られていたものの大きさを思え、釈尊は舎利弗の遺骨をかかげて、比丘たちをうながされていたのです。 (『仏弟子群像――釈尊をめぐる人びと』真宗大谷派名古屋別院、一九八九年、五〇頁)
私は、祖母との記憶を辿れば辿るほど、以前のやさしいすがたを追い求め、そのたびに悲しみを感じていた。そして、その気持ちに背を向け、自らを癒すことだけに焦点を当てていた。だが、失った悲しみは私を苦しめようとしているのではない。
「失った悲しみの深さ」は、生前から受けていた「かけがえのない大きなものを贈られていた」からこそ「深い悲しみとなって迫ってくる」。つまり、これまで注がれ続けてきたものが身に流れているという事実から、悲しみは涌き起こってくるのだ。
もうすぐ一周忌。私のからだには、祖母から贈られていたものが、今も脈打つように流れている。その音を聞きとるように、自らに溢れてくる悲しみに耳をすませると、祖母の存在を感じる。
おばあちゃんからかけがえのない大きな贈りものを与えられているのだから。
(『ともしび』2022年2月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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