赤尾の道宗の足跡を訪ねた2年後の1948(昭和23)年11月、鳥取の民藝運動の同志である吉田璋也(よしだ しょうや)を訪ね、因幡(いなば)(今の鳥取地方)の妙好人源左(げんざ)のゆかりの地を訪れます。

因幡の源左は、1842(天保13)年に因幡国(今の鳥取地方)で生まれ、本名は足利喜三郎といいます。14歳のころ、「名開き(なびらき)」という土地の習俗により、自ら源左衛門と称しましたが、略して源左と呼ばれるようになりました。その体躯(たいく)頑丈(がんじょう)で、素直で優しさをたたえた人柄だったと伝えられます。

源左は浄土真宗本願寺派の願正寺の門徒で、農業を営みながら仏の教えを熱心に聴聞し、感謝の念を忘れず人々に尽くしたことから、「妙好人源左さん」として知られるようになりました。その聴聞の始まりは父である善助の臨終(りんじゅう)の言葉に「おらが死んだら、親さま(阿弥陀仏)を頼め」だったといわれています。そして、父のいう親様とは誰のことなのか、どこにいるのか、この(はかな)い生とは何なのかを問い続け、聴聞の生涯を送りました。