「教化伝道研修」第四期第六回研修は、二〇二三年五月九日から十二日までの三泊四日の日程で開催された。「真宗における僧伽」というテーマのもと、宮下晴輝教学研究所長による基調講義、相馬豊氏(修練道場長・金沢教区道因寺住職)による課題別講義が行われた。「聖教の学び」では、亀谷亨研修長(北海道教区即信寺住職)より『歎異抄』第四章の考究が行われた。


   木曽きそ 亮慧りょうえ

 (東北教区山形第十組 勝樂寺)
 

 今回の研修では「帰依三宝を生み出す信心の内実を尋ねるとともに、個人化し僧伽を見失う問題」を趣旨とする学びをしました。

 宮下所長の講義では、「仏教の僧伽・仏弟子とは何か」という私たちの足元の確認から始まり、その仏弟子の基礎となる「帰依三宝」が僧伽の内実であることが繰り返し話されました。仏と法とが具体的にどのような関わりをもつのかを現実化したものが僧伽であり、仏法を生きる仏弟子は、仏法によって救われたという事実を現実生活の中で体現するものだといえます。それは、仏道を歩む僧伽・仏弟子の存在こそが、仏法が真実として今ここで生きていることの証明なのではないでしょうか。

 相馬道場長からは、僧伽と教団の違いを明確にしつつ、人間関係における苦しみや悩みを私自身の生活の中でどのように確かめていくのかという講義がありました。私は僧伽と教団とを組織体として同一視していた部分があり、心のどこかで「完璧な組織体」であることを願っていました。だから様々な問題が起きたとしても、本願念仏の教えを縁とした人間の集まりであるから、「なぜ教えに立って冷静に問題解決していかないのだろう」と他人事として考えていたように思います。「真宗大谷派という教団に所属する会員の一名」に過ぎないという意識が私にあり、自分を抜きに教団問題を外の事象として認識し、当事者意識が完全に欠如していたことを思い知らされました。

 亀谷研修長からは「「共に生きなければならない」という精神論ではなく、「すでに共に生きている」という身の事実を自覚する」という講義がありました。人と人とのつながりが利害関係にとらわれている現代には、あらゆる面で人間が人間を排除・分断し、孤独化していく現象が社会の中にあらわれています。ある時、私の家庭内で両親と祖母が口論の末に喧嘩となりました。それぞれの言い分もあるようですが、結果として両親と祖母の関係が悪くなりました。その後、祖母は「同じ家に住んでいるのに、私だけ独り暮らししているみたいだ」と私にもらしました。私は教えに生きる寺の人間同士が、「共に生きている」という関係性を分断し孤独化している現実にドキッとしました。これは単に両親と祖母の問題ではありません。私自身もその家族の一員であるということは、私も家族を分断し孤独化させていることに深く関係している事実がそこにあるのです。

 相馬道場長から「家族を「御同朋・御同行」として見ているのか」と投げかけられた時、私は家族を「御同朋・御同行」として尊敬し大切に見ていなかった事実に気づき、深い悲しみと痛みを感じました。「衆生の虚妄を知れば、すなわち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、すなわち真実の帰依を起こすなり」(『真宗聖典』二九二頁)とあるように、本願念仏の教えによって自力の虚妄性を批判されていく、そこに衆生を救わんとする大悲の心と同時に、共に安楽国に往生したいという願いが発起してくる。それは仏法を生きる仏弟子の帰依の現在性が今ここで成就した姿であり、仏法に目覚め帰依して生きる人達を新しく連帯せしめ、「御同朋・御同行」といわれる僧伽の世界を開くものなのではないでしょうか。

─────────────────────
 

   杉浦すぎうら 真信まさのぶ

 (小松大聖寺教区第二組 真成寺)
 

 今回の僧伽というテーマで、すぐ頭に思い浮かぶのは三帰依文であり、私もこれまで数えきれないほど唱和をしてきた。「サンガ」は仏法によっての和合の衆であり、音写し僧伽になった。児玉暁洋氏が「一本の木を森と言わないように、一人の人間を「僧」ということはない」(『児玉暁洋選集』第九巻、三八六頁)と言われるように、何人かの人が集まって初めて「和合衆」というものが成り立つのである。

 「仏・法」のみならば今日まで仏教は伝わっておらず、仏教という概念すらないだろう。教えを聞く人がいて初めて法が法として活きてはたらくのである。基調講義の中でも「仰がれた釈尊」と言われた。仰いだ人が残した言葉が事実となって証明されるのである。そのことが証明されているから今日までも「仏・法」が伝わってきている。

 親鸞聖人は厳しい弾圧を受けながらも、念仏こそが先人から託された真実の証として受け取られ、自らを凡夫と自覚され求道の歩みを生涯された。その姿は確かに「人々から仰がれた方」であったが、「仰がれる対象」としてではなく、教えを共に聞く人々や生活する中で出会った人々を「仰いでいかれた方」だった。その共に教えを聞いていく人々を「御同朋・御同行」と呼びかけ、同じ場に立っておられた。また、「御」の字には平等性と尊厳性が含まれていると教えていただいた。現代の私達は同じ場に立つことより少しでも上にいくことが良しとされる考えが強いかもしれない。

 座談中に相馬豊氏が「御」を考える上で「真面目さと丁寧であることは違う」と言われ、真面目さは自己満足の世界に陥りやすいと指摘をされた。そして、私は丁寧に人と向き合っているかを今一度考えてみた。ご門徒さんの場合では、法座に誘う際もいつも来る方を中心に声をかけており、普段来ない方との間に差が生じていた。ある先生が、「教えを聞いてこられた方を誘うのにはさほど苦労はしない。しかし、教えを聞く縁のない人をたった一人でも、その場に身を運ばせることの方が根気と労力がいる」と言われたことを思い出した。次に身近な家族と丁寧に向き合っているかというと、こちらの都合で押し切っていることの方が多く、声を聞いてそうで聞いておらず、「御」が抜け落ちていた。丁寧とはまず相手の声に耳を傾け続けていくことからでしかないのだろう。また、法座に来ないご門徒さんと私の方が決めつけており、こちらが耳を傾けることに疎かになっていた。

 真宗では、ご門徒さんに「お育てをいただく」という表現があり、「育てる側」と「育てられる側」が立場の関係上にあるのではなく、「御」というものがやはりお互いの生活の中で深く根付いているものを感じる。時として厳しく言われるのは、「共に」仏法を大事にする「僧伽」という形として成り立っているからであり、それがまた、背中を押してくれる存在でもあろう。一人で歩むのでなく、共に歩んでいける道として、先人が残してくれたのである。

 亀谷研修長は、本願のこころとして「自分も他人も含めて、どんな人も軽く見ない。そのいのちの重さにおいて向き合ってほしい。そしていかなる存在も無条件に大切にできる人になってほしい」と、研修を通じて何度も言われた。条件付きの閉ざされた関係しか築けない中において、無条件にお互いを認め合っていける世界として、「僧伽」という開かれた関係こそが大事なのだろう。
 

([教研だより(205)]『真宗』2023年8月号より)