「教化伝道研修」第四期第四回(二〇二三年一月二十四日~二十七日)では、松林至嘱託研究員の発題、福嶌龍徳氏(九州教区熊本東組玄徳寺住職)による課題別講義、亀谷亨研修長(北海道教区北第三組即信寺住職)による「聖教の学び」(『歎異抄』第一章)の講義が行われた。
また、第五回(二〇二三年二月二十一日~二十四日)では、難波教行研究員の発題、鶴見晃氏(同朋大学教授)による課題別講義、亀谷研修長による「聖教の学び」(『歎異抄』第三章)の講義が行われた。以下、各回一名の研修生レポートを掲載する。
第四回
内藤 和裕
(山陽教区赤穂組 明顯寺)
今回の研修では、儀式の意味づけを重んじ、その内容に納得できるか否かを取捨選択する私たちのあり方が指摘され、そこに一石が投じられたように思う。たとえば、私自身も仏前の荘厳作法には意味があり、その意味を尋ねることこそが肝要であると考えていた。そのことは決して否定されるものではないだろうが、何を大事にするのか実に危うさをはらんだ考え方であった。私の言う荘厳作法の意味とは知識として獲得した意味づけであって、そこに自分自身がどういただいているのかという自己を顧みる姿は無い。
以前、ご門徒方の前で仏前の荘厳作法について、「決して形を蔑ろにしていいというわけではないが、形に執われてしまうと本末転倒になることもある」とお話しさせていただいたことがあった。それは形に執着することによって「これが正解だ」と自分の義を立て、他者を裁いていくようなあり方に陥ってしまう危うさを伝えたかったのだが、今振り返ると言葉足らずな部分もあり、誤解を生んでしまったのではないかと心許なく思っている。
私たちには「形のごとく」いただくというところにも大事な営みがある。ただその「形のごとく」を「真宗ではこうだ」という答えとして押しつけてしまっては、目の前の相手との関係が閉じていくことにもなり、また自分事として受け止めることがなければ形をこなすだけのマンネリと化していく。「法に則って形作られた場と私たちの思いによって形作られた場、その間に私たちは立っている」。これは班別座談の中で聞かせていただいた言葉だ。「法に則って形作られた」はずの場がいつの間にか「私たちの思いによって形作られた場」へと歪んでしまう。私にとって日頃の法務がまさにこうではないだろうか。どこかこなしていくだけのマンネリに陥り、ご門徒に対して「真宗ではこうだ」という自らの義を振りかざしている姿がある。
儀式はたとえ一人であっても執行できよう。しかし「真宗における儀式」は一人では成り立たないのではないか。「真宗における儀式」の一大事は念仏申し本願に出遇うことであり、その本願に願われることは「普共諸衆生」の言葉にあらわされるように、隣に人がいるという気づきを促し、目の前の存在との出遇いが開かれていくことではないだろうか。さらに言えば、「共に」は私が差し向ける言葉ではなく、他ならぬ私自身を目的とした如来からの呼びかけである。このことを思い誤るとき、「法に則って形作られた場」が「私たちの思いによって形作られた場」へと成り変わってしまうのだろう。どこまでも共に教えを聞きひらく場として「真宗における儀式」が勤まるのではないだろうか。
「真宗における儀式」の場に身を置くというのは、知識による意味づけに依存することではない。本願の名号に帰依する中で見出される「無二の勤行」を通し、先立って歩まれた方の伝統にふれ、その願いが荘厳となって届けられているという事実に目覚めることではないだろうか。
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第5回
望月 彌名子
(山陽教区第六組 浄泉寺)
私達が今生きている社会を考えてみると、自分がマジョリティ側にいる時、マジョリティが優位に過ごせる構造になっているということになかなか気づけない。講師の鶴見晃氏が「当たり前の生活が誰かの抑圧になっている」と話されたことから考えてみる。例えば、駅の自動改札は右利きの人には使いやすいが、左利きの人には不便を強いる。マイノリティ側に立たされ不当な扱いを受けた時、初めて社会はマジョリティが優位に立つものだと知らされる。私が女性という立場で差別を受ける時、同時に私は右利きであるというマジョリティとしての特権も“無自覚に”享受している。日々の生活自体が差別を内包していても、多くの場合私たちはそのことに無自覚無関心、つまりは差別の傍観者なのである。直接的に差別に加担していないつもりでも、差別を受けている誰かの上に私が立っている。いじめはよくないとしていても、教室で誰かがいじめられる時、その誰かのおかげで自分は安全なところにいた。職業差別は良くないと語っても、他の誰かに自分のやりたくない仕事をさせて、自分は良い所にいる。差別が少し自分から遠く感じる時、それは自分を善い者にしている時だろう。差別しない心を持ちましょうという問題ではない。他を差別することで私が成り立っているという徹底的な自覚をもって、差別問題に向き合わなければならない。
「是旃陀羅」問題の話もあったが、『観経』の中の差別社会と、今私達がいる社会とは、果たして別なのだろうか。『観経』序分に登場する韋提希も阿闍世も月光も耆婆も、差別社会で生きることの苦悩を抱えた存在として書かれている。彼らの抱える苦悩は私達と別なのだろうか。いや、この経典に書かれていることは私のことなのだ。この社会はどうしようもない差別社会であり、自分がその差別社会の構成員でしかないという事実を、一体私はどこまで自覚していただろうか。人間はなぜ差別する存在なのだろうか。
時代、社会、歴史、家庭環境、遺伝といった無数の縁が複雑に関係して、そのこと全てがこの身に宿って私を形成している。つまり、私の善き心も悪き心も「宿業」によるものであり、差別する心を自分の責任でどうこうできるものではない。差別社会を構築し、縁が整えば何でもしてしまうこの宿業の身をどう生きていけばいいのだろうか。
仏法を通して自分を問えば問うほど、宿業の身を持った私という存在は、悲しく痛ましい。しかし、そんな自分を弥陀の本願に依って知らされた時、「他者も自分と同じ宿業の身を持つ苦悩の存在なのだ」とふと気づかされる。亀谷亨研修長は、安冨信哉氏の「われらの地平」という言葉について話された。これまでの研修においても「僧伽」「同朋」について考える時に、「ともに」「地獄一定」「重いいのちを生きるものとして目の前の人を見出しているか」などというお話があった。どの言葉も「他者と自分は同じ宿業の身をもつ苦悩の存在だ」ということであり、それだけが私達の差別社会において成り立つ唯一の平等なのだろう。そして、その平等の地に立たされた時、自分よがりな狭い心が広い世界へ解放され、目の前の人を同じ人として大切に思えるのではないだろうか。
([教研だより(203)]『真宗』2023年6月号より)