ほんとうの自分に 出会えない人生は むなしい
鷺澤顯昇・作
「もう!お父さんの悪い所ばかり似て!」と、妻に長男が叱られています。すると長男が、「悪い所ばかりじゃなくて、良いとこも似たもん」と、反論するではないですか。
うん。なかなかいい所を突くと、ニコニコ、ニヤニヤしながら聞いていると、しばらく黙っていた長男が私に、「ところでお父さんの良い所ってどこ?」と言います。少し慌てて、こういう所もああいう所も良い所ではないかと説明を試みましたが、聞いていた長男は、「まぁ、良い所はあまりないということやなぁ」と言います。
ただその言い方は、けっして嫌みなものではなく、長男自身も親と同じで取り立てて言うほど、良い所というのはないなぁということを確かめながらのものでしたので、二人ともヤレヤレと妙に納得してうなずきあったのでした。
それは、仕方がないなぁという思いと、まぁそうだなと認め合うところとが、いりまじった感じでした。
もっと良い所があるはずだとか、こんな優れている所もあると力んで言うことは、自分で思い描いた自分を、長男に、どうだどうだと押しつけるようなことだったのでしょう。
それを、息子の視線が、でも実際はこうじゃないかなと私を見つめていて、その眼差しに、私が置き去りにしていた「今・ここ」にある自分に、引き戻された感じがしました。
親鸞聖人は、
あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたを
しめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。(『唯信鈔文意』『真宗聖典』557頁)
と言われます。
外面を賢くよそおうなら、内の愚かさを克服して、内も賢くなり、外も内も同じく賢くなろうというのが、私たちの常識でしょう。しかし親鸞聖人は、内が愚かなら、外も愚かでいいと言われるのです。
つまり、内に懐いた愚かな自分を捨てて、置き去りにして、外に賢い自分を求めるなと言われるのです。
それは、私たちが、理想のより良い自分、賢い自分を本来の自分だとして求め、現に「今・ここ」にある自分に背を向けていこうとすることを問題にされたのでしょう。そして、捨て去り、無かったことにしようとしている元に帰れ、そこに自分自身があると言われているのです。
さらに、理想どおりになれるという自分の思いや、これこそ自分の姿であるはずだという私の理解を信頼するのではなく、その元にある私の姿を照らし出してやまないはたらきを信頼するのだと言われるのです。
照らし出される自分の姿を認め、間違いなしと語られるからこそ、親鸞聖人の言葉は、真実の響きをもって私たちを打つのでしょう。
誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、
定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。
(『教行信証』信巻・『真宗聖典」251頁)
四衢亮(高山教区不遠寺住職)
『今日のことば 2006年(8月)』
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。