如来は限りない大悲をもって
迷える者を哀れみたもう
(『大経』)
(出典:如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまう 「真宗聖典」8頁)
大切な愛娘を突然亡くしたMさんは、私に言いました。「この苦しみ、悲しみはあなたにはわからない。同じ経験をした者でないとわからない」と。その時から私は、その話題を避けるようになり、今まで通い合っていた心の道が途絶えたような淋しさを味わいました。
新美南吉の書いた童話に『でんでんむしのかなしみ』(大日本図書)というのがあります。一匹のでんでん虫が、ある日、自分の殻の中にいっぱいの悲しみがつまっているのに気づいて、このままでは生きてゆけないと、お友達のでんでん虫を訪ねてまわるのです。
「私はもう生きていられません。(中略)私は何という不幸せな者でしょう。私の背中の殻の中には悲しみがいっぱいつまっているのです」(中略)すると、お友達のでんでん虫は言いました。「あなたばかりではありません。私の背中にも悲しみはいっぱいです」(中略)どの友達も同じことを言うのでありました。とうとうはじめのでんでん虫は気がつきました。「悲しみは、誰でももっているのだ。私ばかりではないのだ。私は私の悲しみをこらえていかなきゃならない」そして、このでんでん虫はもうなげくのをやめたのであります。
それはこんな短いお話です。
私たちはこの世の苦しみや悲しみにあうと、それを心の奥深くにしまい込み、ピシャリと蓋をすることで忘れようと耐えながら日常生活を守ろうとします。そのたびに心の殻は厚くなり、現実からの問いかけや呼びかけにいきいきと応えて生きるいのちを枯渇させてはいないだろうか。波うっていた悲しみはいつかあきらめや後悔となり、人生の空しさとなって影を落とさないだろうか。
生き迷う私たちのために、真実の生活を開いてくださろうと説かれた『大無量寿経』には、「如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまう」とあります。如来さまの御心は、衆生一人ひとりの荷負いきれない悲しみをそのまま抱きしめているので、蓋ができないほどの大きな悲しみに満ちているというのです。その如来さまの悲しみがふと聞こえてきた時、私たちは、自分と他人、自分と世間とを隔てていた殻の外へと呼び出されるのです。そして、わが身の幸・不幸に囚われ、わが身のために幸福を求めては不幸を恐れて生きているあり方こそが、苦しみの原因だったと知らされるのです。私たちはこの平等の大悲心にふれて、自己満足よりも、互いに響き合い、通い合って生きることの方に深い歓びを感ずる身へと、お育てをいただいてゆくようになるのです。
如来は限りない大悲をもって、「ただ念仏して」と、私たちを呼んでくださっている。
殻の外へ出よ!
風吹けば風に吹かれ 雨降れば雨に濡れ
日照れば日を浴びても
今日も草は青く萌え 花は満ち足りてこの地上を飾っているではないか
星月は空に 涼やかに澄んでいるではないか
汝に賜わってあるいのち尽くせ!
苦に賜わる道を 如来は寂かに歩みつづけて 今 あなたのもとにまで来ておられる
*新美南吉の童話は、「大日本図書」出版の絵本から引用し、字数の都合で漢字混じりに改めて掲載させていただきました。
藤谷純子(日豊教区勝福寺坊守)
『今日のことば 2007年(9月)』
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。