1996(平成8)年 真宗の生活 12月
<本願を生きる道>
「わたしは、自分たちの幸福や平安を、仏さまにお願いしようなどと思って手を合わせたことは一度もありません。ひとえに、今日こうして、生かされていることを感謝してお念仏を申しています」
長いあいだ真宗の教えを聴いてこられたある婦人が、このように話されるのを聞いて、わたしは、彼女が真宗の教えの中に言われている「信心歓喜」や「仏恩報謝」ということを、「生かされていること」への「喜び」や「感謝」というふうに誤解して、かえって「真実の救い」ということがわからなくなってしまっているのではないかという印象をうけました。
わたしたちが生かされているのは「如来のはたらき」である、と勝手に決めて、それを「信心の喜ぴ」としている衆生の「勝手な思い込み」に対して、むしろ、
生あるものはかならず死に帰し、さかんなるものはついにおとろうるならいなり
(『御文』三帖目第四通・真宗聖典799頁)
と気づかせてくださるのが、「如来のはたらき」なのです。
わたしたちの信仰が、「生かされていることへの感謝」などということに止まる限り、それは、「自分たちの幸福や平安のため」の信仰と、本質的には同じものでしかないことを知らねばなりません。
如来わが往生をさだめたまいし、御恩報尽の念仏と、こころうべきなり。
(『御文』五帖目第十通・真宗聖典837頁)
真宗念仏者にとって、「往生さだめたまいし」こと、つまり「本願を生きる道が与えられたこと」以外に、信心の喜びはないはずです。
『真宗の生活 1996年 12月』「本願を生きる道」