おはようございます。今日は、私の大切な友人で15年前に視力を失った田口弘さんの生きざまから学んでいきたいと思います。
医師から視力は回復しないと宣告された田口さんのもとに現在も「あなたの目を治してあげるから、私たちの宗教に入りなさい」という様々な宗教を名のる人々からの勧誘があり、そのたびに田口さんはかつて悩んでいたことを思い出すそうです。
田口さんは幼少のころから弱視であったために、学校ではいじめやいやがらせを受け、高校時代にはたのみにしていた成績も振るわなくなりました。弱視という他の人と大きく異なる条件から逃れられない自分をみじめに思い、何度も自死を決意したそうです。
そのような時、田口さんは縁あって出遇った真宗僧侶の長川一雄先生から「あなたのいのちは、あなたの持ち物なのでしょうか。如来とよばれているはかり知れない大きないのちは、どんな姿のいのちであっても平等に摂め取って捨てません。今、ここに、あなたが生きているのがその証拠です。あなたが苦しいのは目が見えないからではなく、目の見えないあなたを生かしているかけがえのないいのちに出遇っていないからではないですか」と言われ、今まで誰からもあたえられたことのない問いを投げかけられました。それまで「宗教なんて非科学的でくだらない。人の弱みにつけこむきたないものだ」と思って軽蔑していた田口さんにとって、この言葉は衝撃的でした。そしてこれを契機に疑いを持ちながらも、親鸞聖人の教えを聞き始めたのです。そして、いつもかけがえのないいのちを生きていくことを如来によって願われているのに、目が見えるほうがいいといった自分の都合にふりまわされて、その願いを受け取れなくなっていることに気づかされていくのです。
その後、田口さんの目の病気は進行し、ついに視力を失ったのですが、一生聞法することを決意して京都の大谷専修学院で学び、僧侶になる道を選んでいた田口さんにとって、暮らし方こそ変ったものの、聞法に生きる姿勢の根本は何ら変わるところはありません。なぜでしょうか。それは、今、ここに、かけがえのないいのちを生きていることを喜んでくださる如来の教えにふれ続けているからです。
田口さんは、「今でも目が見えたらいいなと思うことはあるし、目が見える人をうらやむ気持ちが消えたわけではありません。しかし、今、この身の事実を受け止められないならば、たとえ目が見えるようになっても、自分に満足できず、人をうらやんだり、周囲の状況に振り回されて悩むにちがいありません」と言われます。ですから、人間の欲望に訴える甘い誘いをするような宗教には、心は動きようがないのです。
田口さんの言葉、「現代社会は目が見える人が中心ですから、盲人の生活には様々な障害や危険が付きまとい、多くの人々に助けていただかないと成り立ちません。」その言葉には訴える力を感じますが、目が見える私たちにも、実は避けられない障害や危険があり、多くの人に迷惑をかけなければ生きられないのです。一人ひとりが受けている条件は異なっても、いのちを生きる身としての本質は同じだということを田口さんは身をもって私に教えてくれたのです。
田口さんとの出遇いを通して、私自身、目の不自由な人を見かけたときには、気軽に声をかけ、お手伝いをさせていただけるようになりました。もちろん健常者としての優越感や哀れみからではなく、如来からいただいた同じいのちを生きるものとして、今自分にできることをさせていただいているだけなのです。私たちの苦しみは、いのちを我がものとして、自分の思うとおりにしたいという心根ですべてを見、判断し、自分の思うとおりにならないと、自分すら粗末にしてしまう生き方をしているところからくるのでしょう。すでに今、ここに、かけがえのないいのちを生きている事実を忘れてしまっていることが、すべての苦しみの根本なのです。このことを一人ひとりの人生に顕かにしてほしいと願われているのが親鸞聖人の教えであるといただいています。