ラジオ放送「東本願寺の時間」

本多雅人(東京都 蓮光寺、親鸞仏教センター嘱託研究員)
“今、いのちがあなたを生きている” 3回目 [2005.8.]音声を聞く

おはようございます。今日は、私が住職をさせていただいている寺のご門徒で、末期ガンの闘病を通して、改めて親鸞聖人の教えにふれることになった篠崎一朗さんのお話をいたします。
篠崎さんは9年前、37歳で末期ガンの宣告を受け、今の医学では完全に治すことは難しく余命1年弱と言われました。篠崎さんは、幼い子供もいるのになぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないのかと、運命を恨み、絶望のどん底に陥りました。しかし、人間まるごと、生老病死を全部見るという、ホリスティック医学を提唱するある先生に出遇われ、病気が治るということよりも、いのちそのものの問題、心の問題が何よりも重要であると教えられたそうです。副作用で苦しい抗がん剤治療の中で、篠崎さんは、親鸞聖人の教えから「生きるということは、思い通りにならないことがたくさんあります。すべては縁によって成り立っているのだから、縁のままに自分を尽くして生きてほしい。どんな自分でも今、ここに、ある自分が尊いのです」ということを繰り返し呼びかけられたそうです。その呼びかけこそがまさしくお念仏であり、篠崎さん自身の中に「病いのままでも自分らしく生きていきたい」という気持ちが自然に高まってきたそうです。
篠崎さんは、親鸞聖人の教えを学んでいく中で様々な言葉に出遇われましたが、一番強くこころに響いたのは「天命に安んじて人事を尽くす」という清沢満之先生の言葉だそうです。「それまで人事を尽くして天命を待つと教えられ、努力してきましたが、親鸞聖人の教えにふれると、天命に安んじて人事を尽くすという生き方に転ぜられていくのです」と篠崎さんは言われています。人事を尽くしても必ずしも思い通りに成功するとは限らず、どこかに不安を抱えながら生きざるを得ません。篠崎さんは、「天命とは浄土であり、それは生きるよりどころであり、私にまでなってきたはかりしれない無量のいのちです」と言われます。その天命に安んじた生き方というのは、ガンで死にかけ、悩み、苦しんでいても、「これがかけがえのない私自身だ」とすべてを受け入れて、その上でできる限りのことをすればいいということだと教えられたそうです。「念仏は悩みをなくすのではない。堂々と悩んでいく道である」という先達の言葉がありますが、篠崎さんはまさしく安心して悩むことができる道を見出されたのです。なぜなら、今、いのちが篠崎さんを生きているからです。
たまたま篠崎さんは末期ガンを克服されました。しかし、再発する危険性を常に持っています。ですから、篠崎さんのお話は、末期ガンの患者が癌を克服できたというサクセスストーリーではなくて、苦しみ抜いた果てに、本来の自分のいのちに目を向けることができたという、だれもが抱えている人生の根本的問題を語っているのです。篠崎さんは「このごろは、自分の生をまっとうしたら、いのちの故郷へ還ってゆけるとの思いがあり、ガンになったことも、無駄ではなかったと思えることもあります。“人生に絶望なし”と言いますが、一度絶望的な状況にならないと、本当の意味で人生に何一つ無駄はないと気づけないと思います。絶望して死と向き合って、本当の自分のあり方を転じていくことができたときに、その人はその人らしい人生を送ることができるような気がするのです」と言われています。そこには、いのちを我が物にして苦しんでいたことから解放された篠崎さんの喜びがあります。思いどおりにならない状況のなかに、実は光輝く世界があるのです。しかし、光輝くことがゴールではありません。
篠崎さんは、「真宗の教えは立派な人になっていく教えではないと思います。人間は愚かであるがゆえに、はかりしれないいのちからの呼びかけを常に聞いていかなくてはならないのです」と言われます。この呼びかけを忘れて、自分の思いにとらわれてしまうのが凡夫とよばれる私たちのあり方なのでしょう。だからこそ、教えを聞き続けていきたいと篠崎さんは言われます。これからも篠崎さんの地についた確かな歩みが続けられていくことでしょう。

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