おはようございます。今朝から6回にわたり、ごいっしょにご聴聞の時をいただくことでございます。
「今、いのちがあなたを生きている」宗祖親鸞聖人750回御遠忌を2011年にお迎えするにあたり、このお言葉がテーマとして掲げられました。
「今、いのちがあなたを生きている」この言葉を受けとる私、それはいったいどんないのちを生きているのかと言いますと、それは、「人間」といういのちであります。このことに間違いはないのです。しかしそれでは私自身が人間といういのちを生きて来たと本当に言えるのかと言いますと、実はそのようなことは考えたこともなかったことであります。ただただ私は私はといって今日まで生きて来たのです。自分が人間といういのちを生きているというそのことを受けとったことがなかったのであります。みなさんはどうでしょうか。一日でも人間として生きたといえる日があるでしょうか。いのちが人間といういのちの相(すがた)をとって生きているそれが私だと。人間というのは私のことだと、受けとったことがないのではないでしょうか。このテーマから何かそのようなことを考えさせられることであります。
そこで今回はこのテーマに「人間といういのちの相」というサブテーマをもうけたいと思うのです。このサブテーマはすでに東本願寺が発行している『同朋新聞』等でとりあげられているものですが、私も今回は「今、いのちがあなたを生きている」というテーマから「人間といういのちの相」ということでおはなししたいと思っております。
本願寺第八代の蓮如上人が書かれた白骨の御文の冒頭に「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相を」とおっしゃられております。人間といういのちの相を浮生というお言葉でおさえられているのであります。浮生とは浮くと生きると書きますが、水草のように根が地につかず、たしかなよりどころをもたない、そういう存在であるというわけです。思えばこの世の中にたしかなよりどころとなるものは何ひとつなく、人間関係にも苦しみ、結局何もあてにできず、最後にはやはり自分だけが頼りです。しかし、その最後のたのみの自分もまた、何しに生まれて来たのか、どう生きるべきか、どっちを向いて死んでゆけばいいのかそれがわかりません。自分の事でありながらこの自分の生き方、あり方、その根拠となるものがありません。気がついたら放り出されたようにこの世にいて、ここに存在しているというそのことにすら根拠をもっていないのです。さらにいつ果てるとも知れぬはかなき身であります。そして迷いまわり罪を重ねている。この人間といういのちの相を蓮如上人は浮生というお言葉で押さえられているのであります。さらにその人間の浮生なる相とは要するにどういうものかといえば、蓮如上人は御文の最後にそれは「念仏もうすべきものなり」と言われています。人間というもの、それは念仏申すべきものであるとおさえられているのです。
つまり、この人間の身とは、老いたるものも若きものも、男も女も、善人も悪人も、賢いものも愚かなものも、念仏をしているものもそうでないものも、信心があるものも無いものも、教えを聞いているものも聞いていないものも、何教の信者であろうと、喜んでいようがいまいが、およそ一切を問わず、人間である限りすべてのものがはじめから念仏申すべき身として生まれてきているのである、と蓮如上人は言われるのです。
白骨の御文といいますと、真宗門徒の方はみな「われやさき人やさき今日ともしらずあすともしらず」というところばかりうなずいていますが、この最後「念仏もうすべきものなり」というところが大切なのであります。