ラジオ放送「東本願寺の時間」

佐野 明弘(石川県 光闡坊)
第2話 今、いのちがあなたを生きている 人間といういのちの相(すがた)  [2007.1.]音声を聞く

おはようございます。「今、いのちがあなたを生きている」というテーマから「人間といういのちの相(すがた)」ということでお話をさせていただいています。仏教徒が仏・法・僧の三宝に帰依することを表明する三帰依文というものがございます。そのはじめに「人身受けがたし、今すでに受く」というお言葉がございます。人の身は受け難きもの、その受け難き人の身を今ここに受けているというこのお言葉には何か深い響きを感じます。それはいのちの不思議なはたらきは、この地球上だけでも様々な形で展開しています。その不思議ないのちのはたらきの中に今、ここに人間という相をとっていのちがはたらいている。それが私であったのかというひとつの驚きであります。日頃はあたりまえに思っていますから驚きませんが、少し考えてみますと、どうしてこんなにたくさんの種の生き物が、しかもそれぞれまったく違ったいのちの営みをしているのか、どうしてこうなっているのか、それがまったくわかりません。不思議というよりほかありません。
親鸞聖人もこのことを「しゅじょうおほきふしぎ」というおことばで水の中にも空にも地にもあらゆるところにあらゆるすがたをとって展開するいのちのありさまを不思議だと言っておられます。そういった数え切れぬいのちの相の中にこの人間といういのちを今ここに受けている。そのことはまったく不思議なことであります。まさにまれに人間といういのちを得たのだという不思議な感覚がございます。しかし、もう一方で、私はこのお言葉にまた別の違った響きを感じるのです。それは人間に生まれたことの悲しみとでも申しましょうか、人間といういのちを受けとめることの難しさ、人の身を生きることの難しさを感じるのです。
なんともなくうまくいっている時には感じませんが、どうにもならぬ悲しい出来事に出会ったり、とりかえしのつかないことをしてしまった時など受けとめ難い苦しみを感じて私たちは「なぜ」を繰り返すばかりです。苦悩を抱え、空しさと孤独を抱えたこの人間の身をどう受け取っていったらいいのか、悲しみに満ちた人の世をどう受け取っていったらいいのか、人の身を生きるとはどういうことなのか、こんな悲しい思いをしなくてはならない人間というものに生まれたということはどういうことなのか。これは人間の身を受けたものすべてが抱える問題であります。そしてその悲しみを抱えながらなお生きんとし、あるいは悲しみに耐えきれず自ら命を絶ち、あるいは今なお立ち直れずに苦しむもの、そこに人間の人生の難しさ、人間であることの悲しみを感じます。「人身受け難し」であります。
人間以外のあらゆる生きものはそのいのちの願い通りに迷いなく生きているように見えます。たけのこは迷いなく竹になろうとしています。猫は猫であることに迷ったことがありません。すべての生きとし生けるものがそのいのちの願いどおりに迷いなく生き死んでいく中に、人間だけが人生に迷い人生につまずき、この身、この世をどう受け取っていったらいいのかがわからないのです。それはつまり、人間だけが自らのいのちの願いを見失ってしまったということでありましょう。自らの願いを見失った存在、それが人間なのであります。それでもなお、人は迷い続け苦悩し続け求め続けて止みません。それは薄っぺらい信心や個人的満足では抑えきれない深いいのちの要求があるからです。我々の方からは見失っているいのちの願い、しかしその願いの方は我々を見失ったことがないのです。そこに人間に生まれた悲しみと同時に人間といういのちの厳粛さと深さが感じられてまいります。迷いの深さは同時にいのちの深さであります。そのようなことがこの「人身受け難し」というお言葉から感じられてくるのであります。

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