ラジオ放送「東本願寺の時間」

本多 雅人(東京都 蓮光寺)
第二回 死が見えなくなった現代音声を聞く

 「3.11」、東日本大震災とそれに伴う原発事故から、私たち人間そのものが問われ続けています。
 人間の思い、つまり思い通りにしたいという心根だけが絶対化された現代は、「死」がまったく見えない社会になってしまいました。「死」の問題にかぎらず、苦しみとか悲しみはない方がよいという考えが蔓延し、いざ自分の前に苦悩とか悲しみが起こってきたときに、人と人との関係性のなかから学ぶことを忘れ、自分の手を汚さないで専門家とか専門分野の人にゆだねていく社会になってしまったのです。それは「老病死」に特に顕著に表れています。誰もが老いる身であり、病気をしていく身であり、死すべき身であるにもかかわらず、その身と真向かいになって生きていくということがないのです。
 先日、私の寺の信者であるご門徒が仏前結婚式をされました。阿弥陀如来の御像と宗祖親鸞聖人の御姿を描いたご真影の前で結婚を誓う厳かな儀式です。結婚式にはお祝いの法話があります。お祝いの席では、「別れる、死ぬ、苦しむ」と言った言葉はタブーなのですが、それにふれないのは仏教ではありません。私は法話のなかで「お二人が結婚するということは、いずれはどちらかが先に亡くなって、どちらかが棺に花をいれて、ありがとうと言いながら愛する人と死別していく苦しみが来るのを約束するようなものですね。二人が生活を共にするということは、死を生の埒外においやって誤魔化すのではなく、いのちの厳粛な事実をしっかり受け止めて生きていくことを決意するということではないでしょうか。そして死別していくいのちであっても永遠に変わらないものを教えに尋ねていってください。おめでとうございます」とお祝いの言葉をかけました。新郎新婦は深く頷かれていました。式が終わって、参列されていた五十代の女性が私のところに駆け寄ってきました。「私は癌をわずらっているのですが、癌のままにかけがえのない命を生きていこうという気持ちになり、今までの私が問われました」と涙ながらに語ってくださいました。この方は自分のあり方を見直され老病死に真向かいになられたのです。教えに照らされると自分の愚かさを自覚するとともに生きる力が与えられるのでしょう。私はとても感動し、仏教にふれる大切さをあらためていただいたことです。
 現代に生きる多くの人がそのことを教えられる一番の場が葬儀ではないでしょうか。だからこそ葬儀に仏教が寄り添ってきたのです。ところが、その葬儀すら、経済的効率性のなかで簡略化し、すべてを葬儀社にまかせてしまっています。都会では今や遺体を家庭に安置せず葬儀社に預け、葬儀も火葬場の釜の前で済ます直葬が激増し、ますます死が隠蔽されて、死が自分の問題にならなくなっています。亡き人を縁として、死すべき身をどう生きるかという誰もが本来持っている宗教的課題を明らかにしていくことが、亡き人への本当の供養内容となるのでしょう。教えに根ざした葬儀が回復されないかぎり、現代は益々迷いを深めていくのではないでしょうか。
 どんな自分も受け止めるということは容易なことではありません。状況によっては、自分を受け止めることができないのが人間として生まれた存在の悲しみです。「死」の前に立つと何も間に合いません。しかし、間に合わないところにはじめて見えてくる世界があるのです。人間はいたずらに苦悩しているのではありません。その苦悩するところには「何の価値づけも要らない私のままでありたい」という深い願いが生きているからでしょう。その願い「本願」はけっして消えません。親鸞聖人の教えに生きた明治の念仏者清澤満之は「生のみが我らにあらず、死もまた我らなり」と身をもって頷かれました。死を受け止めてこそ、生きていることそのものの尊さを実感できるのではないでしょうか。生を輝かせているのは実は死だったのです。生と死を分けてしまい、死を排除する現代の闇は深いと言わねばならないでしょう。その闇を超えていくのは一人ひとりの課題です。

第1回第2回第3回第4回第5回第6回