「3.11」、東日本大震災とそれに伴う原発事故から、私たち人間そのものが問われ続けています。今回はその最終回です。
3.11から多くの教訓を学んだのにも関わらず、経済が発展すれば、幸福を獲得できるという幻想からなかなか離れられない現実があります。経済発展によってもたらされた恩恵も大きいだけに、その闇がなかなか見えてこないのです。闇が見えないことがまた闇なのです。結局、人間の思いが人間を苦しめているのです。
現代は、役に立つ能力が高い人間になることを当然の善としますから、そういう人材を待望します。しかし、人材ですから、代わりなどいくらでもいるのです。誰でもいいのです。存在そのものの尊さが失われてしまったのが現代の悲しむべき状況なのです。経済発展によって人間は救われるどころか、現実は自分が不在であり、人間不信が蔓延し、家庭崩壊に象徴されるように関係性も崩壊してしまいました。自分が不在の人間が現代を作っているのです。その一人がこの私ではないでしょうか。
私たちは、現代の流れに合わせて生きざるを得ないのですが、それでけっして満足できるものではないのです。私たちは、どこか孤独であり、不安であり、むなしさを感じて生きているのが事実なのではないでしょうか。そう感じるのは、自分を回復したいと願っているからなのでしょう。
現代の価値観に合わせることではなく、関係性のなかから学び教えられる世界を持つことが、自分が尊い存在と受け止められる方向性をいただく唯一の道だと親鸞聖人は私たちに呼びかけられています。人間とは人の間と書きます。人と人との関係を通して、人間は成り立っています。現代は人と人との関係が希薄になりました。人と人の関係性のなかで自分に出遇う時がない、場がないのです。これではまるでロボットのように一生が終わってしまいます。関係性の回復が現代に生きる私たちにとって急務です。そして、このことを仏教はさらに詳しく開いて語りかけています。自分に出遇い、他者とも出遇う本当に開かれた関係になるかどうかは、その場を通して、自分の思いを超えた何か大切なメッセージが聞こえてきて、それに深く頷かされなければなりません。仏教はそのことを「如是我聞」(にょぜがもん)、私にこのように聞こえてきて頷かされお育てをいただきましたと言うのです。仏教はこれが生きるうえで大切なことだと呼びかけているのです。誰もが、自分の思いを超えた、自分が深く頷けるものに出遇いたいのです。
そのことを確かめる伝統的な場がお寺です。お寺は時代を超えて、悲しみや苦しみ、迷いをもった人たちが、迷いながらも自分に、他者に出遇ってきた歴史的な場です。お寺はただの建物ではなく、柱一つひとつに人間として生まれた悲しみと、それを超えていく願いがしみ込んでいます。そういう歴史の上に私たちも存在しているのです。関係性を失った現代において、私たち一人ひとりの上に「如是我聞」の世界が開かれることが願われています。現代におけるお寺の存在意義、使命は実に大きいと言わねばならないでしょう。
人間はいたずらに迷ったり苦悩したりしているのではありません。苦悩の中にこそ、自分の思いを超えた深い願いが胎動しているのです。苦悩を通して、教えが思いもかけず聞こえてくる、うなずかされるということがおこる所以です。
生きづらさを感じつつも、誰もが自分ではない感覚をやぶって、何も足さない何も引かない何の価値づけも要らない尊い自分に帰りたいと願っているのです。そのことを、私たちに先がけて親鸞聖人が自身の身をあげて証明してくださいました。皆さんが苦悩したり迷ったりしていることは、根本的に誰もが抱えている課題を抱えているのです。誰もが自分の思いを破り、深い願いに遇いたいのです。その一点が現代の闇を破る道なのではないでしょうか。