浄土真宗では、「お仏壇」のことを特に「お内仏」といいます。みなさん、お仏壇とお内仏の違いがわかりますか。これがわからないと、真宗・南無阿弥陀仏の教えがわかりませんよ。
みなさんの町に、「仏壇店」があるでしょう。全国に○○仏壇店とか、何々仏壇店とかあります。でも、○○お内仏店とか、何々お内仏店とかはありません。これはどういうことでしょうか。「仏壇」は売買の対象で、売ったり買ったりしますが、「お内仏」とは売ったり買ったりする対象ではないということです。我が家にお内仏があるということは、我が家には“金では買えんものがあるのだよ”ということを教えているのです。金で買えんものとは、“いのち”です。お内仏は、いのちの尊さを教えている。そういう人間形成の文化を“お内仏”といいならわして伝えているのです。お仏壇を買い求めてくる。そして、その中に阿弥陀様の軸をお掛けし合掌する。その瞬間に、仏壇はお内仏になる。手を合わせなければならんほどの大切なことを、み仏に手を合わせる形で教えてあるのです。そして、“いのち限りなからん、光り限りなからん”とみ仏より私に呼びかけられているのです。
日頃、私達はお仏壇と言いならわし、又、聞きなれていますが、この違いだけは認識しておいて下さい。
ここで、少し反省してみましょう。浄土真宗の教えでは合掌しお念仏を申して「お内仏」になるのです。もしお参りをすることがなかったら、家に売買できる箱があるということにしかなりません。私達は仏壇にしているのか、お内仏にしているのか。振り返ってみましょう。仏壇とお内仏の違いを家族で話し合ってみてはいかがでしょう。仏様から日々、いのちはお金では買えん。いのち大切にせよと教えてあることを知るでしょう。そして、いのちを、お互い粗末にしてはならんのだということが、それぞれの人間形成の大切な伝統文化になっていくのです。
“いのち限りなからん!光り限りなからん!いのちを大切にせよ!”、この教えを一言で、私達、真宗の教えに生きる者は“南無阿弥陀仏”と申してお念仏を代々相続してきたのです。
又、お内仏を次のように解釈できます。“我が心の内なるみ仏は南無阿弥陀仏である”と。そうなれば、旅行していても、散歩していても、電車に乗っていても、いつでもどこでも、み仏に会えます。
昔、九十歳を超えた老人を見舞った時、その老人はベッドに座っていて、次のようにいいました。“わしは、阿弥陀さまと一緒じゃから死ぬ行先のことは全然心配しておらん”と。
生きておっても、死んでからも、阿弥陀さまと一緒ということは、かの老人の心の内に「お内仏」をかかげていたことになります。ブレない、一本筋の通った人生を全うしておられると感じました。だから、今日まで鮮明にあの老人の言葉を憶い出すことです。
一本筋の通った人生とは、どういうことをいうのでしょうか。私はいつも念珠、数珠のことを思います。数珠のいのちは幾つもの珠を貫いている糸です。糸がなければただのバラ玉です。バラ玉を見て数珠とはいいません。糸によって、幾つもの珠が貫かれて一つになって数珠といいます。これを人生に当てはめてみますと、今まで沢山の事柄がありましたが、それを貫く、数珠でいえば糸に当たるものがなかったら、沢山の事がバラバラにあったというだけで人生にはならんのではないでしょうか。私の人生、いいことも、わるいことも、うれしいことも、悲しいことも、人に言えないことも、全部南無阿弥陀仏の糸で貫いてこその人生です。
お内仏にお参りするとは、日々我が人生を貫く糸、南無阿弥陀仏の確認なのです。お仏壇とお内仏の違いを常に意識していきたいと思います。
今回の放送をもって、東本願寺の時間を終わります。半世紀以上の間、皆様のご支援により放送させていただきました。最終回にあたり、厚く御礼申し上げます。南無阿弥陀仏。