信心の伝統
- 【原文】
印 度 西 天 之 論 家 中 夏 日 域 之 高 僧
顕 大 聖 興 世 正 意 明 如 来 本 誓 応 機
【読み方】
・印度 の西天 論 、家 中 ・夏 の高僧、日域
大聖興 の世 正 を意 し、如来の顕 、本誓 に応ぜることを明かす。機 - 【原文】
親鸞聖人は、インド・中国・日本に出られた七人の高僧の徳を讃えておられます。それは、「印度・西天の論家、中夏・日域の高僧」と言っておられる、これらの方々が、間違いのない信心を、後の世の
高僧というのは、徳の高い僧ということです。別に名僧という言葉がありますが、中国の仏教界では古くから、高僧と名僧とは厳しく区別されてきました。名僧は、よく名の知れた僧ということですが、名僧は必ずしも高僧であるとは限らないのです。世の人びとが生きてゆくのに、かけ替えのない指針を与えてくださっている方、それが高僧です。親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願によって与えられている念仏を素直にいただいて生きるしかないこと、そのことをつくづくと思い知らせてくださった高僧として、七人の大先輩を讃えておられるわけです。
「大聖興世の正意を顕し」とありますが、「大聖」とは釈尊のことです。釈尊が、この世間にお出ましになられた、その本当のお心、それが「興世の正意」ということです。釈尊が、この世間に出られた本当の目的は何であったのか、そのことを七人の高僧がたが顕かにしてくださっているのだと、親鸞聖人は述べておられるわけです。
この「正信偈」の少し前のところに、「
釈尊は、『
次に、「如来の本誓、機に応ぜることを明かす」とありますが、この「如来」は、阿弥陀如来です。「本誓」というのは、どうにもならない凡夫を何としても救いたいと願われた、阿弥陀仏の本願です。そしてその願いが成就しないのであれば、仏にはならないと誓われた
「機」とは、一人一人の人間のあり方、また、その一人一人の人間の「はたらき」のことをいいます。私たちは、いわば「
そのようなあり方をしている者であるからこそ、また、そのような「はたらき」をしている者であるからこそ、それを救わねばならないと願われる阿弥陀仏の願いが差し向けられるに相応しい者なのです。つまり「機」とは、本願の対象となっているという、そのようなあり方をしている者であり、またそのような「はたらき」をしている者のことなのです。
さて、
そして、親鸞聖人は、まさしくご自分こそが、阿弥陀仏の本願のお目当てであることを、七高僧が明らかにしてくださっていると、喜んでおられるのです。私たちも、他ならぬ、自分のような邪見・憍慢の人間こそが、阿弥陀仏の大悲の願いが向けられている者であることに気づかされて、そのことを親鸞聖人のように心から喜べる身になりたいという、そのような気持ちを確かめることが、「正信偈」に託された親鸞聖人のお心に沿うことになるのではないでしょうか。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘