一心
- 【原文】
広 由 本 願 力 回 向
為 度 群 生 彰 一 心
【読み方】
広く本願力の回向に由って、
群生を度せんがために、一心を彰す。
親鸞聖人は、天親菩薩のことを「広由本願力回向 為度群生彰一心」(広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために、一心を彰す)と述べて讃嘆しておられます。
天親菩薩が、阿弥陀仏から凡夫に対して回向されている(差し向けられている)願い(本願)にもとづいて、群生を本願に目覚めさせるために、一心(信心)の意味を明らかにしてくださったのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。
ここに言われている「群生」というのは、「衆生」という言葉とインドの原語は同じで、中国語に翻訳されるときの訳し方に違いがあるだけです。「あらゆる生きもの」という意味ですが、差しあたっては人間のことを言います。つまり凡夫のことです。
次の「度する」というのは、「渡らせる」ということで、苦悩に満ちた状態から、苦悩が解消した状態へ導くことです。迷いの此岸から、覚りの彼岸へ渡らせることです。
天親菩薩は、苦悩する一切の凡夫を救いに導くために、「信心」の意味を明らかにしてくださっている、ということです。その「信心」を「一心」という言葉で言い表しておられるのです。
天親菩薩は、『浄土論』(『無量寿経優婆提舎願生偈』)をお造りになりました。『真宗聖典』には「婆藪槃頭菩薩造」と標記されていますが(135頁)、その婆藪槃頭は、ヴァスバンドゥの音写で、天親と訳されているものです。ですから『浄土論』は「天親菩薩がお造りになった」ということになります。
その『浄土論』の冒頭に、天親菩薩は「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」(世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず)(『真宗聖典』135頁)と述べて、心のうちに沸き立つ思いを表白しておられます。「世尊よ、私は心を一つにして、阿弥陀仏に帰命して、極楽浄土に生まれたいと願っております」という切なる願いを表明されたのです。
「世尊」は釈尊のことです。釈尊は『仏説無量寿経』をお説きになられて、阿弥陀仏の本願のことを教えておられるのです。「正信偈」に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり)(『真宗聖典』204頁)とありますが、これは、釈迦如来がこの世間にお出ましになられたのは理由があることであって、その理由とは何であるのかと言えば、それはただただ、阿弥陀仏の海のように広大な本願のことをお説きになるためであったのだ、ということです。
天親菩薩が「世尊よ」と呼びかけておられるのは、本願の真実をお説きになられた釈尊に対して、眼を逸らせることなく、真正面から仰ぎ見る姿勢を示しておられるのです。そして「我」と言っておられるのは、釈尊が顕かにしてくださった本願の真実に、きちっと向き合っておられる天親菩薩の自覚を示されたお言葉なのです。
さて「一心」でありますが、これについて、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』に「一心というは、教主世尊の御ことのりをふたごころなくうたがいなしとなり。すなわちこれまことの信心なり」(『真宗聖典』518頁)と説明しておられます。「一心」というのは、釈尊のお言葉に対して、二心なく、また疑わないことであって、それはまことの信心である、と教えておられるのです。親鸞聖人はまた、「一心の華文」という表現によって、天親菩薩が述べられた「一心」という言葉を大切にしておられるのです。
「一心」は「まことの信心」ということであります。「真実信心」であります。その「信心」は凡夫が凡夫の意志で起こす信心でないことは明らかです。親鸞聖人は、これを「如来よりたまわりたる信心」と教えられました。如来の願いとして回向されている信心ですから、誰にとっても平等に及ぼされている信心です。
天親菩薩は、「群生を度せんがために、一心を彰す」と詠っておられる通り、一切の凡夫を導くために、そのような「一心」と言われる「信心」をいただいている意味を彰かにしてくださったと、親鸞聖人は喜ばれ、讃えておられるのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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