大会衆の数に入る
- 【原文】
帰 入 功 徳 大 宝 海
必 獲 入 大 会 衆 数
【読み方】
功徳大宝海に帰入すれば、
必ず大会衆の数に入ることを獲。
前回見ていただきましたように、親鸞聖人は、天親菩薩のことを「為度群生彰一心」(群生を度せんがために、一心を彰す)と讃えられています。すべての人びとを救い導くために、天親菩薩が「一心」の意味を明らかにしてくださったと、親鸞聖人は讃えておられるのです。すなわち、如来よりたまわっている真実の信心の意味を「一心」という言葉で明らかにしてくださったからです。
そしてその天親菩薩は、次に「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」(功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲)と教えておられるのです。すなわち、私たちが功徳の大宝海に帰入するならば、必ず大会衆の数に入ることができると言われるのです。
「功徳」というのは、善い行いを原因として生ずる善い結果を意味します。一般には、自分が実行する修行によって、自分が覚りに近づくという功徳が得られる、と理解されています。つまり、自分が善い原因を作り、それによって生ずる善い結果を自分が受け取るのです。
しかし、本願他力の教えからしますと、意味がまったく異なります。私たちが自分で善い原因を作るのではないのです。私たちには作れないのです。善い原因は阿弥陀仏がお作りになっているのです。そして阿弥陀仏がお作りになっているその原因によって、善い結果が生じますが、その善い結果は、阿弥陀仏が受け取られるのではなくて、私たちがいただいているのです。
この私を何とか救ってやりたいと願われる阿弥陀仏の願いが原因となります。そして、その原因によって生ずる善い結果、つまり功徳が私に与えられているわけです。その功徳は「南無阿弥陀仏」という名号として与えられているのです。
「功徳大宝海」というのは、天親菩薩の『浄土論』の偈文にあるお言葉です(『真宗聖典』137頁)。功徳である名号は、私たちにとっては、この上ない偉大な宝物です。しかも、宝物である名号の功徳は、あふれるばかりの水をたたえた海のように、私たちの身に満ちあふれていますので、これを親鸞聖人は、「功徳大宝海」という天親菩薩のお言葉を掲げて喜んでおられるわけです。つまり、「帰入」しておられるのです。
「帰入」は「帰依」と「回入」とを一つにした言葉です。最も大切にするべきものを心から敬い、まかせきって、最後の依り所とすること、それを「帰依」と言います。自力のはからいから心を回らせて、本願という他力に心身をゆだねることを「回入」と言います。
さて、自我のはからいから離れて、私たちに与えられている功徳としての名号、「南無阿弥陀仏」にこの身をおまかせするならば、「必獲入大会衆数」とありますように、必ず大会衆の数に入ることができると教えられているのです。これも親鸞聖人は、天親菩薩の『浄土論』(『真宗聖典』144頁)のお言葉を用いておられるわけです。
「大会」は、この場合、阿弥陀仏が、極楽浄土で、今、現に説法しておられる会座を言います。『仏説阿弥陀経』に「今現在説法」(いま現にましまして法を説きたまう)(『真宗聖典』126頁)と説かれていますが、その法座のことです。
阿弥陀仏の浄土に往生して、その説法に参集している多数の菩薩を「衆」と言っています。つまり、私たちが「南無阿弥陀仏」を依り所にするならば、すでに浄土に往生して阿弥陀仏の説法を聴聞している人びとの数に必ず入ることになるということです。ということは、すでに往生している人びとの仲間に必ず入るということですから、今、この身のままに、功徳の名号によって往生が確定するということになるのです。
なぜ「必ず」なのか。それは、私たちが阿弥陀仏の極楽浄土にすでに往生している人びとと同じになることが、阿弥陀仏の願っておられることだからです。凡夫の願いやもくろみならば、条件次第でどうなるかわかりません。「必ず」などとは言えないのです。けれども、本願は唯一絶待の真実です。真実は、どのような条件にも左右されることがないのです。
大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘
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