『歎異抄』の最後のほうに、親鸞聖人が、法然上人のもとにおられたころの逸話がいくつか出てきます。その1つに「信心一異の諍論」といわれる、信心が同一か異なるかという論争があります(聖典639頁)。
親鸞聖人が、自分の信心は法然上人の信心と同じだと言ったところ、法然上人のもとでは先輩にあたる勢観房・念仏房という御同行が、「おまえのような新参者が、私たちのお師匠さんと信心がいっしょなどとは思い上がりもはなはだしい」と叱ったのでしょう。
それに対して、親鸞聖人は「法然上人の智慧、才覚が自分と同じだというのなら、それはとんでもない心得ちがいですが、こと往生の信心においては、まったく異なることはない」と言いはなったものですから、決着がつかなかった。最終的に法然上人のところに行って判断を仰ぐこととなりました。そうすると、法然上人は、「親鸞の信心も法然の信心も、如来よりたまわりたる信心だからまったく異なることがない。私と違う信心の人は、同じ浄土に行かれませんよ」とおっしゃったわけです。ここで「如来よりたまわりたる信心」非常に魅力的な言葉を残してくださったわけです。この出来事があったために私たちは、それを金科玉条のようにして「如来よりたまわりたる信心」という言葉を使い続けてきた。お説教でよく使われます。その言葉を使っていれば、それでいいのでしょうか。
この論争で、親鸞聖人と法然上人が同一だと言われた「信心」と、勢観房・念仏房が同じであるはずがないと言った意味での「信心」とは、同じ「信心」という言葉が使われているのですが、両者が意味するところ、中身が違うと言うことは、はっきりしているわけです。そしてこんにち私たちは、あまり疑問もいだかずに、親鸞聖人や法然上人が「信心」という意味でこの言葉を使っていると思っているのではないでしょうか。私たちは親鸞聖人を祖師としていただく教団に身を置いているのだから、「信心」とは、「如来よりたまわりたる信心」の意味だと思っている。だからお説教で「如来よりたまわりたる信心」と言えるのです。
では、そのときに使われている「信心」の言葉の意味は本当に、親鸞聖人と同じような意味で使っていることになっているのでしょうか。もしそれが親鸞聖人と同じ意味であるならば、「私の信心は親鸞聖人と同一である」と何のためらいもなく言えなければならないはずです。そのように言うことに、ためらいをおぼえるひともいらっしゃるのではないかと思うのです。もし、そこにためらいを覚えるのであれば、勢観房や念仏房たちの感覚に近いのではないか。あるいは座談会や談合などでは、信心が深い人だとか、あの人はまだまだ信心がわかっていないなどという言葉が使われますが、そういう使われ方をするときの「信心」という言葉の意味するところは勢観房や念仏房が言っている意味に、はるかに近いように思います。
法然上人の言葉で決着がついた形ですが、勢観房・念仏房は、それで自分たちが間違っていたと反省したと思いますか。『御伝鈔』を見ますと、『歎異抄』の場面から、さらにその続きがありまして「ここにめんめんしたをまき、くちをとじてやみにけり(聖典730頁)」という具合に描かれています。これは悔しいと思っている様子ですね。『御伝鈔』ですから、ひいき目で見ているところはあるでしょうが、それでも法然上人が下された結論に対して、表立っては言わないけれども、心の奥底では、やはり承服しかねるものを持ち続けておられたように見受けられます。