1994真宗の生活

1994(平成6)年 真宗の生活 12月
<本願を信じ、念仏を申さば仏になる>

この言葉は、真宗の教えが単純明快に表現されています。
これは教えの説明ではありません。事実を言い表したものです。
「本願を信じて念仏を称えれば成仏する」という解釈ではありません。

解釈して了解しようとしますと、いろんな疑問が出てきます。例えば、「本願を信じても念仏を称えなければ成仏しないのか」とか、「念仏を称えていても本願を信じなければ成仏しないのか。法然上人は、ただ念仏せよと言われるのではないか」というような理屈が出てきます。「本願」のいわれを聞きうなずくことができたならば、念仏を申さずにはおれない身となり、成仏は自然の道理であって、人問の理知や計らいの及ぶところではないということが知らされます。

ある女子高校生の随筆にこんなのがありました。「高校三年生の秋、毎晩十二時過ぎまで受験勉強をしていたころのことです。十二時になると母が必ず夜食とコーヒーを持ってきてくれました。当然のことのようにいただいておりましたが、ある夜のことです。暖かいコーヒーを飲みながらフト気づき胸のしめつけられる思いがしました。母は朝早く起きて朝食や弁当まで用意してくれる。それなのに毎晩十二時になると夜食を持ってきてくれる。『私は母親の愛情の中に生かされ続けていたんだなあ』と思い、涙が止まりませんでした。思わず『お母さん、ありがとう』と一人つぶやいておりました」。この女子高生は、おそらく人が変わったような生活が始まり、やがて素晴らしい思いやりのある女性になるに違いないでしよう。

故金子大榮師は「念仏申さんと思い立つ心のおこるとき、すなわち人間の生活が始まる」と言われました。念仏は、阿弥陀如来の意(本願)に触れたときの、いわば感動のほとばしりです。アミダ仏の本願とは、「本当に人問らしい人間になれ」という深い生命そのものの悲願であり、それは私の願いだということの許されない自己至奥の志願なのです。この志願に触れたとき人が真の人となる人生の歩みが始まると共に、その人生を尽くして仏となるに違いない事実が確信されるのてあります。

『真宗の生活 1994年 12月』 「本願を信じ、念仏を申さば仏になる」「大阪教区『教化センター通信』から」