1996真宗の生活

1996(平成8)年 真宗の生活 9月
<塩の話>

葬式(そうしき)にお参りした後や、火葬(かそう)場からの帰り、家の前で塩を体にふりかけるのは、どういうことでしょうか。

これは、ご存知(ぞんじ)の方も多いと思いますが、「(きよ)めの塩」ということです。(けが)れに()れた、穢れた場所へ行ったから、その穢れを(はら)い、清め、他に穢れがうつらないようにするために、塩を使うというのです。

これは、亡くなられた方を、穢れたものとして見、(あつ)うことです。生も死もその人の人生です。生きておられる間は、様々に情を効わして生き合いながら、その死にあたって穢れたものとして扱うことは、その人の人生の最後に「穢れ」たという烙印(らくいん)を押して終わらせるということです。そして、そのことによって、その人生全体を穢れたものとすることになります。
こんなことをされてもよい人はだれもいませんし、また、この行為が(ゆる)される人も一人もいないはずです。
亡き人を最も侮辱(ぶじょく)し、いのちの尊厳(そんげん)冒涜(ぼうとく)する行為です。テレビドラマなどで、気に入らない人間やけんか相手が帰った後、「塩をまいとけ!」というような場面がありますが、亡き人の人生の最後にあたって、同じ仕打(しう)ちをするということです。

先日、お寺に集まる若い人たちの話し合いの中で、この塩をまくことが話題になりました。
葬儀の会場から勤務先へ行った時、若い同僚(どうりょう)から塩を体にまくよう言われたそうです。それで「清めの塩」の意味を話したところ、そんな(むずか)しいことを深く考えて言っているのではなく、通例だからと言われたと話が出ました。
慣例(かんれい)、通例ということで、意味はともかく一応行うという人が多いのでしよう。亡き人を侮辱しよう(おとし)めようとして考えて、塩をまくという人はあまりいないと思います。

しかし、慣例や通例を守らず、それを(やぶ)ることに何となく抵抗感(ていこうかん)があったり、落ち着きが悪く、何となく心がザワつくとしたら、それはどういうことでしょうか。
深く考えるとか考えないとかでなく、死を(おそ)れ、()(きら)う私たちの意識が、死を「穢れ」と思わせ、それが我が身に()りかからないようにと塩を使わせるのではないでしょうか。そして、それをしないと何となく気持ちが悪いのでしょう。この意識こそが、「清めの塩」を慣例にし習慣にしているのです。

私たちは、必ず死すべきいのちを生きています。その事実を、先に亡くなられた方の死をとおして確認することを恐れ、ごまかし、逃げ回る方法として「清めの塩」があるのではないでしょうか。
そしてその結果、(まった)鈍感(どんかん)にも、亡き人を冒涜(ぼうとく)し、いのちの尊厳を(おか)すことを平気で行っている自分の姿に、気づかないことになっています。

宗教とは、事実を様々に解釈(かいしゃく)し、ごまかすいろいろな「考え方」ではありません。自分の事実にうなずき、自身の生きる姿に驚きをもって目を()ますことです。そして、私に正しく事実を知らせるはたらきを、真実と(あお)ぐのです。

『真宗の生活 1996年 9月』「塩の話」