2000(平成12)年 真宗の生活 9月 【生死】
<「ぼく」が「ぼく」であるために>
現代では、生命科学あるいは医療技術の急速な展開により、人間は生命の「始め」と「終わり」をコントロールできる力を獲得したかの観があります。
しかし、どれほど生命を人問がコントロールし得たように思えても、永遠の生命が得られることは決してありません。いのち有る者は必ず死にます。否、「私」の一部分が、あるいはクローンが、仮に生き長らえるということがあるとしても、「この私自身」は必ず死ぬのです。
その「私」は、ものごころついたときには、すでに地球上の、日本のある場所に生まれて生きていました。突然気がついたら「ここに」生まれていた「私」は、自分の意志で生まれたのではないにも関わらず、自分の意志と力によって、この苦悩深き時代を生き抜かなければなりません。ここに、大きな矛盾があります。
たしかに、生命が長らえ、苦しみがしだいに改善されてゆけば、生きている間の時間は、豊かなものと言えるかもしれません。人間はそのためにひたすら走り続けてきました。けれども今、それが本当の幸せなのか、私たちは親子の関係や教育の荒廃、深い人間関係の喪失感、あるいは環境汚染や経済の不透明感によって、切実に感じつつあるのではないでしょうか。
自分自身の「始め」と「終わり」が闇に閉ざされ、その間の人生を孤独のままに懸命に生きるというだけでは耐えられない、それは深い空しさだということを感じ、道を求め、遂に「永遠の真実」に遇われたのが釈尊であり、親鸞聖人でありました。そして私たちも、その真実に「今」遇うことができるのです。ただ人生を空しく終わるわけにはいきません。「既に成就あり。汝、自重し自ら、独り、問い求めよ」。
『真宗の生活 2000年 9月』【生死】「「ぼく」が「ぼく」であるために」