私の日々の暮らしは明日のこと、1週間先、1ヵ月先のことを心配して、解決したこともないのに、目標を立てこなしていくことに始終しています。
私の日々の暮らしは明日のこと、1週間先、1ヵ月先のことを心配して、解決したこともないのに、目標を立てこなしていくことに始終しています。
     いま聞き いまうなずき いま念仏申す
久保龍子・作

私が結婚して出会った末次カツヱというおばあちゃんが亡くなって5年ほどになりますが、今でも新鮮にこの言葉が私をゆり動かします。“現在 ただ今”、(とつ)いだ先のお母さんのお父さん、佐々木(ささき)蓮麿(はすまろ)さんが寺の報恩講で法話をしてくださっていた中で毎回、口からこぼれていた言葉らしく、その末次のおばあちゃんが機会あるごとに、「蓮麿さんは“現在 ただ今”と、こればっかり繰り返しお話しされていた」と教えてくれました。お母さんからも「おじいちゃんは、いつも同じことばかり言っていたよ」と聞いていました。

このおばあちゃんは、私が結婚する前、お母さんが嫁いだ頃から寺の手伝いをしに毎日姿を現していました。手足の大きいよく働く、明治、大正、昭和そして平成を生き抜いた人でした。庭の草取り、座布団の入れ替え、法要前の幕掛け、そして幕下ろし等々、一人で静かに仕事をこなしていました。身なりに気を使う人ではなかったのですが、法要当日はいつもとは一変して、髪を結いあげ、着物を着てご本尊(ほんぞん)に一番近い席を陣取り、ひとり、「なむあみだぶつ なむあみだぶつ」とつぶやいていました。「仏様の前では、衣服を整えなければ申し訳ない」、そういうことを力むことなく言っていたことを思い出します。95歳で枯れるように亡くなっていかれましたが、私の中には事あるごとにその姿が思い出されます。

私の日々の暮らしは明日のこと、1週間先、1ヵ月先のことを心配して、解決したこともないのに、目標を立てこなしていくことに始終しています。自分や他人からの評価で喜んでみたり腹を立てたりのご苦労な生活です。自分で思っていることは、今はなかなか解決していないけれど、いつかできる時がくるのではないかと夢みています。とどまることもなく未来のことを思い(わずら)っているばかりで、そうすることが生きているという感覚になっています。子どもの頃から大きくなったらお嫁さんになりたい、他人からうらやましいと思われる人になりたいと、私なりに一所懸命に上を向いて生きてきました。結婚という夢がかない満足したかというと、そこで終わることもなく、今度は子どもに自分の思いを託します。「あなたのことを思って言うけど、プールに通ったらどう?習字を習った方が将来のために役に立つよ」、などと次から次と私の価値観を押し付けます。そして思うようにならないことを悔やんでは、この次はきっとうまくいくと当てにもならないことを期待して生きています。そのような私に、「今を永遠に生きることが肝要(かんよう)」という言葉になって、会ったことのない、佐々木蓮麿さんが現れてきます。未来にしか目を向けていない私を立ち止まらせます。現在 ただ今、どう生きていますか、このまま死んでいけますか。聞法(もんぽう)生活していますか。言葉が時を越えて私のところに降り注いできます。末次のおばあちゃんと共に、亡くなった人たちが私の前に押し寄せてきます。どう生きたいのですか、何を願っているのですか、このまま次の世代に手渡していいのですか。永遠の今を生きよと。

草野龍子(久留米教区真敎寺)
『今日のことば 2006年(7月)』
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。

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