正定聚の数に入る ―真宗の大綱(2)―
寺川 俊昭
(大谷大学名誉教授)

はじめに

今年も報恩講をお迎えいたしまして、今夜、この讃仰講演会の場で、ご参詣の皆さま方とご一緒に、親鸞聖人の教えを尋ねる機会をいただいたことでございます。それをありがたく思いながら、うかがったのでありますが、ことに今年は、大先輩であられます松野純孝先生とご一緒ということで、大変光栄に存じておることでございます。
今回は「正定聚の数に入る -真宗の大綱(2)-」という講題で、親鸞聖人の仏道の知見、浄土真宗についての思想、これを尋ねたいと思ってうかがいました。この「真宗の大綱」は、今年の4月に、この高倉会館の日曜講演で「往相回向の心行 -真宗の大綱(1)-」という講題でお話しを申しあげました、その続きでございます。
この「真宗の大綱」は、おそらく今日で終わらないと思いますから、機会があれば、その3、その4と、続くことになるであろうと思います。前回、尋ねましたことにつきましては、幸いこの高倉会館の機関誌であります『ともしび』9月号(第647号・真宗大谷派宗務所刊)に載せていただいておりますし、そのコピーを今日お配りいただきましたので、あとでお読みいただければ幸いです。

浄土真宗の仏道

「真宗の大綱」、若干仰々しい講題でありますけれども、浄土真宗の基本という意味です。これを尋ねるということは、いったい浄土真宗とはどういう仏道であるかを尋ねることと同じでございます。これについて、親鸞聖人が「これが真宗である」というご見解を『教行信証』「教巻」の冒頭で最初に、見事にというか、よく整った形でお述べになっております。

謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。(聖典152頁)

はっきりと「謹んで浄土真宗を案ずるに」とあります。浄土真宗という仏道はいかなるものか、これを述べるならば「二種の回向」があって、真宗のすべてを支えている。その二種回向とは、第1には「往相の回向」であり、第2には「還相の回向」である。その往相の回向について、そのはたらきを衆生の上に具体的に実現していくものとして、真実の教・行・信・証という4つの法がある。このように浄土真宗の1番基本的な骨組みが、記されております。
これと響き合う『正像末和讃』の文が、思い出されます。

無始流転の苦をすてて 無上涅槃を期すること
如来二種の回向の 恩徳まことに謝しがたし(聖典504頁)

我々が「無上涅槃を期する」という、現生に正定聚の身となって、無上涅槃の証りに至るべき自覚道に立つのは、あげて「如来二種の回向」の恩徳の賜物である。感謝しても、感謝し尽くせないではないか。こういうお心持ちをうたわれた「和讃」であります。
しかしながら聖人は、この二種回向のはたらきについて、我々は往相回向を行じたり、還相回向を実践したりする、そんなことをおっしゃっているのではありません。往相回向と還相回向という二種の回向は、如来の恩徳である。「恩徳」というのは、如来が衆生を救うはたらきを申しますが、これは如来の「分斉」であり、如来の責任なのだ。我々衆生の「分斉」は、この恩徳を謹んでいただき、「真実の教行信証」に生きることである。そして正定聚の身となった我々の人生が、浄土真宗の仏道という意味を持つのである。このようなお考えが、聖人の1番基本的な了解であると思われます。

真宗の大綱

親鸞聖人は、その基本的な了解を展開し、内容付けたお考えを、『教行信証』でさらにお述べになります。曽我量深先生は、最初の2巻である「教巻」と「行巻」を、浄土真宗の伝統を述べた「伝承の巻」、「信巻」より後は、聖人がその伝統を踏まえて独自のご了解を述べられた「己証の巻」とされています。聖人はこの「行巻」において、「真宗の大綱」を「誓願一仏乗」としてお述べになります。真宗とは、如来の誓願によって、われら群萌に開かれた無上仏道であると述べられるのですが、これが浄土真宗についての基本的な了解を展開した、その内容の1つです。
こちらへ来る前に、ある立派な研究者の書かれた浄土真宗についての本を読んでおりましたら、「今生に念仏して来世に極楽浄土に生まれる、これが真宗だと親鸞は信じていた」と書いてありましたが、そんなことはどこにも書いてありませんでしょう。前回尋ねたことですが、如来の誓願によって群萌に開かれた「無始流転の苦をすてて無上涅槃を期する」という「涅槃無上道」、あるいは「大般涅槃無上の大道」という自覚道に立つこと、これが浄土真宗なのです。
浄土真宗という仏道の内容を、聖人は「真宗の大綱」としていくつか述べられますが、『教行信証』においては2カ所ございます。1番目は先ほどの「行巻」であり、そして2番目が「証巻」冒頭の文章です。この「証巻」の「真宗の大綱」が、浄土真宗という仏道の1番基本となるものであり、かつ積極的なものなのです。

しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。(聖典280頁)

「大乗正定聚の数に入る」とは、今日の講題の由来する大切な言葉です。浄土真宗の証りとは、いったいどういうものであるかと言えば、それは現生に正定聚の位に住して、必ず無上涅槃の証りに至るべき道に立つことであるとお述べになります。
それは「真実証」と言えば、如来の無上涅槃のお証りが「真実証」ですけれども、ここで聖人は到達点においてではなく、我々が涅槃の証りに向かって生きていく1歩1歩の歩みつまり「自覚道」において、真実の証りを顕かにされるのです。真実の証りの具体的なあり方を、到達点である無上涅槃の証りにおいて語るのではなく、涅槃への道程、すなわち浄土真宗の仏道として、大切に語られるのです。
前回そして今日の講題は、「証巻」のこの「真宗の大綱」によっているわけです。今日は「正定聚の数に入る」、この言葉によりながら、親鸞聖人が身をもって生きていかれた浄土真宗とはどういう仏道であるか、これを尋ねたいと考えて申しあげていることでございます。

念仏申さんとおもいたつ心

重ねて申すようですが、これが浄土真宗なのです。「死んで極楽に生まれる」というようなことは、ここにはひと言も書いてございません。「往生する」とも書いていない。真っ直ぐに、如来の無上涅槃の証りに向かって生きていくのだ。そういう道が、いつ、どうして始まるのか。それは念仏の身となって本願に目覚めたとき、我々の歩みは流転する人生を超えて、涅槃に向かって生きる人生へと変わっていくのだ。その人生の歩みを浄土真宗という仏道と呼ぶのである。これが、親鸞聖人が、浄土教の伝統の中から、力を込めて切り開かれた仏道の自覚であったのです。
「往相回向の心行」という言葉も、非常に洗練された、高い仏道の知見を表す言葉です。これは先ほどの「誓願一仏乗」のところで聖人がお使いになっている言葉で言えば、「行信」のことです。行信というのは聞法を大切に続けることで、やがて必ずわれらに念仏する心が育てられてくるのですが、『歎異抄』はそれを「念仏もうさんとおもいたつこころ」(聖典626頁)が起こると語っておりますけれども、その心が称名として表白される、それが行信です。ひたむきな聞法によって、やがて「念仏もうさんとおもいたつこころ」が湧き起こり、その心が一声の念仏となって表白されるのですが、念仏の身となったその人は、その名号に呼び覚まされて、如来の本願を身をもって知ることができる。そういう感動的な目覚めの体験を「行信」という言葉で聖人は語られるのです。
『歎異抄』は、「念仏もうす」という言葉を大切に語りますが、本願を信じてから念仏するのではありません。我々のような者が仏道を知るときを持つのは、念仏する心が湧き起こってくる、その体験を持ったとき以外にはありえないのです。親鸞聖人も法然上人の教えに育てられてこの心が湧き起こった。それが、聖人が仏法に心を開かれた最初の体験であり、仏者としての初心なのです。
念仏する心が湧き起こったその体験は、「帰命尽十方無碍光如来」という言葉として表白されます。我々の人生は流転の暗さの中にあるのであるが、その暗い人生の闇を破る大きな光に目覚めていけと、こう本願が私を呼んでくださっている。謙虚にその声に従おう。この心が、「念仏もうさんとおもいたつこころ」において動いている。それが「行信」なのです。念仏する身となって本願に目覚め、如来に目覚めた心が、如来の往相回向のはたらきを体験する心である、それを聖人は「往相回向の心行」と呼んで、行信の思想的な性格付けをなさいました。

「現生正定聚」の信念

親鸞聖人が語る「往相の回向」について、正しく了解しておきたいと思います。この往相回向について、「私たちが浄土に往生する一切の仕掛けをお与えくだされること」、あるいは「私たちが浄土に往生して直ちに成仏する、そういう往相を回向してくださること」と言うようなご見解があります。いずれも間違いではありませんが、充分ではありません。先ほどの『正像末和讃』によるならば、聖人がおっしゃる往相回向とは如来の恩徳のことなのですが、その趣意を充分とらえていないと思われるからです。
ある方の本を読んでおりましたら、「正定聚」ということを「来世浄土に生まれる身と定まること」とありましたが、これは全然的外れですね。来世などではなく、今の人生のただ中で、必ず無上涅槃の証りに至るという信念を恵まれて生きる人生の歩みが、正定聚なのであり、それを実現させる如来の恩徳、あるいは本願のはたらきが往相回向なのであり、「浄土に往生させてくださる」ということではありません。これは言葉に引きずられているだけでありまして、確かに「往相」とは「往生浄土の相」という意味なのですが、聖人は往相回向を、我々を「浄土に往生せしめる回向」ではなくて、この現生のただ中で、行信を獲た衆生を正定聚の身としてくださる本願のはたらきとして、了解されるわけです。

その「正定聚」について、聖人がごく啓蒙的にわかりやすく解説なさるときには、
仏にかならずなるべきみとさだまるくらいなり。
(『尊号真像銘文』聖典513頁)

とおっしゃいます。では仏になるべき身と定まるときはいつかと言うと信心獲得のそのときです。
重ねて申しあげますが、我々が念仏の身となって本願に目覚め、尽十方の無碍光の中に私は生きているのだという感謝すべき目覚めをいただいた人は、即時に、この人生のただ中で大乗正定聚の数に加えられ、必ず涅槃無上道に立つのである。これが二種回向の賜物であり、これが真宗である。聖人は浄土真宗の1番基本となる信念を、繰り返してこのようにお述べになっているのであります。

聖人の言葉を聞く

このことをどのようにお述べになっているか、少し例を申しあげましょう。実は本山の『同朋』誌に「親鸞に出会う」という題で、親鸞聖人の大切な言葉を選んで連載しておりました。そこから31編を選び、『親鸞に出会うことば』(東本願寺出版部刊)と題しまして、1冊にまとめていただきました。よく知られている『声に出して読みたい日本語』(齋藤孝著・草思社刊)という本がありまして、私も読んで感銘を受けたので、それにならってみました。ちょうど1ヶ月、31日分にしてありますので、例えば1日に1文ずつ拝読していただければと思います。
選びました法語は、いずれも聖人が真宗について、あるいはご自身の信念を語られた言葉です。例えば『浄土和讃』の文、

たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり
(『親鸞に出会うことば』22頁・聖典481頁)

「不退にかなう」というのは、現生に正定聚の身となる、ということをおっしゃっていることであります。
あるいは『唯信鈔文意』の言葉、

自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人・善悪凡夫の、みずからがみをよしとおもうこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず、ひとすじに、具縛の凡愚、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。(同38頁・聖典552頁)

よろずの煩悩に縛られたるわれらが、「煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたる」。とても力強い言葉です。
「煩悩を具足しながら」、煩悩にまみれて生きる、このわが身の姿は悲しいものです。けれども問題ではないのだ。煩悩の身のままに、「無上大涅槃にいたる」大きな道に立つのだ。何によってか、行信を獲得することによってである。このようにおっしゃいます。
同じく『唯信鈔文意』の、これは最初に書いてある言葉です。

この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり。(同50頁・聖典547頁)

「尊号」とは如来の名号です。我々が「念仏もうさんとおもいたつこころ」に目覚めて、南無阿弥陀仏とおおらかに念仏する、それは信心の表白なのですが、そこに名号は輝いているのです。
普通は「念仏して浄土に生まれる」と言い、あるいはしばしば無自覚に、「念仏さえすれば極楽に生まれる」とも言われます。「念仏さえすれば」などと言いますが、そんなことをおっしゃる人は、実は念仏の身となる苦労をなさっていない、その証拠ではないでしょうか。「念仏さえすれば」などと冗談ではありません。「念仏さえすれば」ではなくて、「幸い念仏する身となることができたならば」ではないでしょうか。
浄土教では普通、「念仏すれば浄土に生まれる」と言いますが、これは法然上人の信念でもあります。親鸞聖人も、もちろんそうおっしゃいますが、もっと進んで「浄土に生まれる」というよりも「無上大涅槃にいたる」と、非常に力を込めておっしゃるのが基本なのです。

聖人の信念にふれる

あるいは「正信偈」の言葉です。

よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。(同62頁・聖典204頁)

よくご存じの「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」ですが、そこには煩悩を断ぜずして浄土に生まれる、とは書いていない。「一念喜愛心」、つまり行信を発すことができたならば、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」と、はっきりおっしゃいます。
続いて『一念多念文意』です。ここには親鸞聖人の往生理解の基本となる言葉がございます。

真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。(同82頁・聖典535頁)

「往生」と言うと、我々がこの世から浄土に生まれていくように思うけれども、そうではなくて、行信を獲ることによって、現生に正定聚の身となる。それを『大無量寿経』が「即得往生」と教えてくださっているのだ。自分は真実教を『大経』に聞く者であるから、そのとおりに信ずる。「往生をう」とは、往生する人生をいただいたと了解してよいのでしょう。聖人はこうおっしゃっているのです。
再び『唯信鈔文意』の文章です。

如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。(同94頁・聖典553頁)

泥にまみれて生きるほかはないわれらが、ふたごころ無く本願を信ずる身となることができたならば、必ず大涅槃の証りを開くべき身となるのである。これは先ほど尋ねました「証巻」の「往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入る」(同106頁・聖典280頁)と同様に、聖人の信念の表明であり、浄土真宗という仏道の基本を語っている言葉です。
もう1つ、『教行信証』「信巻」の文章です。

「真仏弟子」と言うは、「真」の言は偽に対し、仮に対するなり。「弟子」とは釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信・行に由って、必ず大涅槃を超証すべきがゆえに、「真仏弟子」と曰う。(同114頁・聖典245頁)

お釈迦さまの弟子に加えられたということが、法名に「釈」の字を付ける理由です。「金剛心の行人」というのは、行信を生きていく者です。浄土に往生するからではなくて、必ず「大涅槃を超証」すべき身となる、だから真の仏弟子と言うのだ、とおっしゃるのです。
今、7つほどの文章を拝読しましたけれども、親鸞聖人は一貫して、信心を獲れば、もしくは念仏の身となれば、正定聚の位につき定まり、必ず涅槃の証りを得ることのできる身としていただく。このことを力を込めてお述べになっていることは、すぐおわかりでしょう。「往生」以上に、聖人は非常に強い信念の吐露として、「正定聚」、「大涅槃」を語り続けてくださっていることであります。浄土真宗の仏道とは、凡夫であるわれらに賜る大乗の仏道であることを、今いくつかたどった聖人のお言葉からも、よく承知することができます。