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-大切な人を亡くす悲しみを抱えながらも、亡くなった方の死因により、葬儀を「とむらい」の場として過ごすことのできなかったご遺族の方々がいらっしゃいます。やり場のない悲しみの声を聞きあう活動に取り組んで来られた鷹見有紀子さんに、葬儀の場における僧侶への願いを率直にお話しいただきました。多様な葬儀の在り方が問われる今、自死遺族として感じられた貴重なご意見を紹介いたします。

「葬儀における遺族の苦痛を少なくするために」
文 : 鷹見 有紀子(「リメンバー名古屋自死遺族の会」代表幹事)
リメンバー名古屋自死遺族の会
自助グループ「リメンバー名古屋自死遺族の会」では、自死遺族の方の体験や思いをつづる冊子を刊行されている。

リメンバー名古屋自死遺族の会は、市民によるボランティア団体であり、特定の宗教・政党などのみとの強い関わりは持たないことにしています。しかし、仏教を含め「宗教」は自分たちを救いうるものの一つとして大切なテーマであり、私自身が葬送の仕事に長く関わっていた経験からも、葬儀や法事の場で僧侶の方にお願いしたいことがたくさんありました。そこで今回は、実務的なことについて、いくつかのお話しさせていただきます。

(1) ご法話について、自死遺族の立場からのお願い―長い話は理解できません―

自死など、予期せぬ突然の死の場合、遺族はショック・パニック・感情麻痺の状態で、現実を理解できるまでに少し時間がかかります。死別直後の遺族の状態を一言で言うなら、極限状態(そこに座って息をしているだけでも精一杯の状態)で、人の話を理解する力も著しく低下しています。

遺族に通夜でのご法話の内容を覚えているかと尋ねると、「ほとんど覚えていない」か「ある単語や一文だけを誤った理解で記憶してしまっている」という人が大勢います。

ご法話は、日常の平易な言葉で、小さな子どもになにかを説明するときのように簡潔に話してもらった方がよいのだと思います。

お話全体も、ひとつひとつの文章も短い方がよく、もしかするとご法話は1分程度でもよいかもしれません。

「長い話」「難しい話」を聴くのは、平時でもエネルギーが要るものです。極限状態の遺族に長い話を聴かせるのは酷なことです。

また、死者を悼み、遺族を慰めようと参集した人々の中に「布教」という別の目的を持って関わる僧侶の方がもし居たとしたら、それは異質の存在で、死別の当事者は大変な違和感を覚えます。「万障繰り合わせてかけつけてくれた参列者の時間を消費して死者や遺族とは関係のない話を長々と繰り広げられた」と感じるからです。

通夜でお話をしてくださるのであれば、まず始まる前に、僧侶の方ご自身の儀式に臨む思いを一人称で話してほしいと思います。

「私はこんな思いでこれからお勤めをします」と儀式の前に短く伝えてもらうと、僧侶の方の真剣な思いも、教義の一端も伝わりやすいのではないのでしょうか。ただし、解説的な内容は理解され難いですし、仏教全般についての話や、一般論、他人の体験談は、死別直後の遺族には受け容れがたいので、それらを交えずに話してもらうとよいと思います。
また、「長い話をする」よりも、「遺族からふと質問をされたときに、短く的確に答える」内容の方が、遺族の心に残るかもしれません。

 

(2)「納骨したくないのに納骨を急かされる」苦しみを取り除く

遺族の苦しみの中に「まだ納骨したくないのに周囲から納骨を迫られる苦しみ」があります。「納骨していないこと」を責められて、「まだ遺骨を手元に置いておきたい自分」「納骨したくない自分」を強く責めている遺族が大勢います。

「大切な人の遺骨をいつまでも手元に置いておきたい」と思うのは、とても自然な気持ちです。「納骨するかしないかは、あなたの思いにそって決めてよいのですよ」「納骨に期限はないんですよ」と伝えていただきたいと思います。

できれば親せきなどの第三者が居る場面で、ことあるごとにおっしゃっていただけたらありがたく思います。これは、僧侶の方にしか言えないこと(僧侶以外の方が言っても効果が無いこと)ですので、ぜひともお願いしたいことなのです。

 

(3)答礼挨拶という慣習を変えるために

参列者の焼香の際に、焼香所の脇に遺族の代表者が立って会釈をする「答礼挨拶」(立礼挨拶※)というものがあります。慣例になっている地域が多いのですが、この答礼挨拶は、悲しみに暮れる遺族が、大勢の人の前に立たされ、人目に晒され続けるという、非常に精神的な負担を強いるものです。何十回とお辞儀をすることで、腰や首を痛めてしまう身体的な苦痛も伴います。

答礼挨拶(立礼挨拶)
喪主(図中、青)が焼香を行う人に対し、立って挨拶を行う。会葬者が多い場合、悲嘆状態や体調がすぐれない喪主には負担になる。

葬儀の形が、死別の最たる当事者に苦痛を強いる形式で定着してしまっているのですが、遺族が答礼挨拶をしないと「答礼挨拶もしなかった」と悪くおっしゃる方、あるいは「遺族に答礼挨拶もさせなかったのか」と葬儀社に苦情をおっしゃる方が、世の中には大勢いらっしゃるため、葬儀の現場では、実際には骨折している人でも椎間板ヘルニアの人でさえも、無理をおして答礼挨拶に立とうとする、葬儀社も遺族に答礼挨拶を当然のこととして勧めざるをえない、という実情があります。

「葬送の儀式は誰のために、何のために行うものなのか?」という原点に立ち返って考えてみても、勤行の間中、遺族が故人や本尊に背を向けて参列者にお辞儀をしつづける儀式のあり方は、再考の必要があるように思います。

しかし、遺族当事者になった側からは「答礼挨拶をしない」という選択は取りにくく、慣例を変えていくことは、なかなか容易ではないと感じています。
僧侶の方には、儀式を司るお立場から、できるだけ組織単位で、答礼挨拶という慣習を無くしてほしいと思っています。儀式のあり方について、ぜひ門徒の皆様や葬儀社と話し合える機会をつくっていただけないでしょうか。

※「立礼」と呼ばれることもあり、また、焼香時に喪主・遺族による挨拶を行わない地域もあります。

 

♣ 参考として~椅子席・焼香所(台)配置のアドバイス~

答礼挨拶が要らない椅子席の配置のポイントをご紹介しますので、各地域の実際の状況に合わせて、ご参考にしていただければと思います。

椅子席の配置のポイントは、

①答礼挨拶をしなくても遺族は参列者の顔が見える
②ただし、参列者から遺族の顔は見えない

の2点です。

 

式場を上から見た配置図です。仏式の葬儀での実際の例を図に示します。

葬儀会場での椅子の配置「A」

【A】親族席を向かい合わせに配置しているAの配置をよくみかけます。「焼香に来てくれた人の顔が見えるから」という理由で、このような配置が取り入れられるようになったのだろうと思います。
しかし、この配置ですと、親族は儀式の間中、横顔をずっと参列者に見られていることになります。泣き顔を人に見られたくない、と、涙を我慢してしまう人もいらっしゃるでしょう。

葬儀会場での椅子の配置「B」
葬儀場での椅子の配置「C」

【B】【C】親族席と一般席を前後でわけて前向きに配置するとこのようになります。席は向かい合わせではなく、前向きの方が、それぞれの思いに集中できてよいように思います。
BとCはどう違うでしょうか?焼香所の位置が違います。Bの場合、焼香のときに問題が生じます。

Bですと、答礼挨拶をしないかぎり誰が参列してくれたかわからない上、答礼に立った人しか参列者の顔をみることができません。Cであれば、答礼挨拶をしなくても、座ったままで、来てくれた人と挨拶ができます。焼香をした人は、自席に戻る際などに、着席している遺族と挨拶ができるのです。

後述しますが、参列者の焼香の様子を、遺族は特別の思いで見ています。Bの配置の場合、①答礼挨拶をせざるを得なくなる②答礼挨拶に立たない遺族・親族からは、誰が来てくれたのかわからず、サポートを受けた感じがしないという、大きな問題点があり、BとCでは、全く様子が異なってくるのです。

葬儀会場での椅子の配置「D」

【D】CとDはどう違うでしょうか。Dの方は、少し、円みがついています。どちらがよいかというと、CよりDの方がよいと思います。

Cも望ましい配置ではありますが、両端の席の人は、式壇中央からの距離がかなり遠くなってしまいますので、実際に端の席に座ってみると、すこし「遠い」「見えづらい」と感じるはずです。

柩や式壇を中心に考えると、柩からの距離ができるだけ均等に近い感じになるように、少し円みをつけた方が、参加者全員のことを考慮した配置にもなり、あたたかな雰囲気になります。少し首を動かすだけで、同じ列の他の人の様子を「見ようと思えば見える」ということも、この配置のメリットです。
しかし、円みをつけすぎてしまうと、Aの配置と同じく「見られたくないのに顔を見られ続けてしまう問題」が出てきてしまうことがありますので注意が必要です。参列者同士の親しさの度合いにもよりますが、席の配置を決める際には、実際に座ってみて、人に顔を見られ続けない、でもお互いに、ちょっと他の人の様子を見ようと思ったら見られる、という、絶妙の角度で配置をしていただきたいのです。

E

【E】Dと同じ配置ですが、僧侶の方が後方に下がってお勤めをするEの配置は、僧侶の方も焼香の状況や場内の様子を確認しやすいのではないでしょうか。

 

♣ さいごに~理想の椅子席配置をするためには、ある程度のスペースが必要~

以上、答礼挨拶に関連して、椅子席の配置例をご紹介しました。これらの配置例に正解があるとすれば、C・D・Eが理想ですが、ちょっとした椅子の角度や、ちょっとした通路の幅の違いで、着席した人の感じ方や状況は、大きく変わってきます。

C・D・Eの配置で問題なく進めるためには、式場中央・両サイドの通路と、椅子席の列と列の間に、人がすれ違えるだけの十分な広さが必要です。また、焼香の前後に、参列者がどこを通り、どのようにふるまっても、ぶつかったり、誘導されたりしないためには、焼香所の前に広いスペースが必要です。少人数用の小さな式場が増えていますが、理想的な配置は、式場が広い方が作りやすいと思います。

席の配置がうまくいかないと、遺族も参列者も、葬儀社スタッフから「少々お待ちください」「○列にお並びください」「お待たせしました」「どうぞお進みください」などの声をかけられながら焼香に進む、ことになります。しかし、極限状態の遺族に配慮するという視点からは、儀式中、最低限の誘導(手で方向を指し示す程度)で参列者が焼香に進めるために、席の配置がとても重要で、それは、遺族のその後の状態にも深く関わってくることなのです。

10時開式の葬儀の場合、参列者は10時を目指して集まります。しかし、10時には遺族は着席しており、現状では、遺族と参列者の接点は、焼香の時くらいしかありません。参列者はそれぞれの思いを込めて焼香をし、遺族はその様子を見、「ああ、来てくれたんだ」と目と目で言葉を交わします。遺族と参列者のその心のやりとりはとても大切で、それが心身の苦痛なくできるために、椅子席の配置がとても重要なのです。

死別に直面した遺族の心身の状態を鑑み、葬送の儀式の本来の意味に立ち返り、誰が当事者になってもつらい思いをしないためには葬儀がどのようになっていればよいのか。僧侶と門徒の皆様、葬儀社、地域の皆様とが心を合わせて、それぞれの地域のよりよい葬送のあり方を構築していただけたらと願います。

(おしまい)


-自死遺族の当事者である鷹見さんは、「リメンバー名古屋自死遺族の会」を立ち上げ、自死で大切な人を亡くした方が胸の内に抱いている思いを安心して語ることのできる場を開き、多くのご遺族の声を聞いてこられました。その中で、葬儀や法要の場が亡き人をとむらう場として必要であると、「宗教」の重要性を感じておられます。また、葬儀社での勤務経験を通し、「とむらい」の場を作り上げるための工夫を提案されてきました。「葬儀」には、地域によりそのあり方や様相は異なります。しかし、終わりに語られたとおり、大切な人との死別に直面した誰もが葬儀の形や進行によってつらい思いをすることのないよう、届けられた声に耳を傾け問い尋ねていく歩みが、今求められているのかもしれません。

■執筆者プロフィール
鷹見 有紀子(たかみ ゆきこ)
家族を自死で亡くすという体験から、2003年12月に自死遺族同士で思いを語る自助グループ「リメンバー名古屋自死遺族の会」を立ち上げ、現在代表幹事。「自死遺族」という言葉が浸透していない頃より、身近な人を自死で亡くした人の経験・悩み・悲しみの声を届ける情報発信を行う。また、葬儀社での勤務経験より、『中外日報』、『雑誌SOGI』などで、葬儀の場における自死遺族への配慮についての提言やブックレット『SOGI Booklet④改訂版大切な涙-大切な人を亡くしたあなたに、お伝えしたいこと-』(近藤浩子共著、表現文化社、2013年)の刊行なども行う。

► リメンバー名古屋自死遺族の会HP
► 「大切な人を亡くされたあなたへ(本冊)」(同会監修、愛知県・名古屋市発行)
► 「大切な人を亡くされたあなたへ(折り畳み版リーフレット)」(同会監修、愛知県・名古屋市発行)
► 名古屋市いのちの支援サイト「こころの絆創膏」

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