― 京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌が発行されています。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈13〉深津八郎左衛門
(『すばる』734号、2017年7月号)

蔵書印「深津所蔵印」 蔵書印「富賀津」

蔵書印「含加楼」

蔵書印,

上から順に「深津所蔵印」「富賀津」「含加楼」(『功徳大宝海』深津家所蔵)

 

  1、東海道宿場町の真宗門徒

東海道の宿場町であった興津宿(おきつしゅく)(静岡市清水区)に、代々金融業を営んでいた深津(ふかつ)家がありました。所属寺は、清水湊の專念寺(岡崎教区第34組、静岡市清水区)です。遠江国や駿河国といった、現在の静岡県にあたる東海道中の地域は、真宗の少ない地域です。ただし、本願寺門跡や使者・使僧が東海道を往来する際、道中の寺院は輸送する人馬を提供するなど、重要な役割を果たしました。

 

東西本願寺の歴代門跡は、日光社参や江戸城への登城を目的として、度々関東参向を行いました。深津家には、本願寺門跡の関東参向に関する史料がいくつか伝えられています。それらは、7代目当主である深津八郎左衛門(1812~82)の時代のものです。  

 

まず「東門跡御参向行烈附」は、天保14年(1843)に東本願寺20世達如上人(1780~1865)と新門・厳如上人(1817~94)が関東参向した際に発行された1枚刷です。行列図が描かれており、解説も書き添えられています。  

 

また東海道の各宿場において、東本願寺門跡の定宿を列記した『東本願寺定宿東海道』という横帳の刷物があります。刊行年は不明ですが、後表紙の記載から、弘化3年(1846)7月に興津宿の東本陣である市川新左衛門から、深津氏が譲り受けたことが分かります。7代目当主の八郎左衛門は、このように他の所蔵史料にも、伝来について記述しており、几帳面な性格であったようです。

 

東本願寺の門徒である深津家に、西本願寺門跡ゆかりの箸が伝わっています。それは文化5年(1808)3月27日、西本願寺19世本如上人(1778~1826)が、興津宿の東本陣である市川新左衛門に滞在した際、夕食の御膳で使用したという箸です。市川家は日蓮宗檀家であるため、真宗門徒である深津家が譲り受けたと考えられます。このようなことから、東西を問わず、本願寺門跡を大切な存在として崇めていたことがうかがわれます。  

 

2、両堂再建を支えた真宗門徒

篤信の真宗門徒であった八郎左衛門やその家族は、4度の焼失に見舞われる度に再建されてきた東本願寺へ対して懇志を上納し、本山での法要へ参詣もしています。天保6年(1835)5月、八郎左衛門は上京して本山に参詣した際、同年3月に執行された遷座・遷仏供養会の絵図を御堂前通りにて購入しています。また天保12年(1841)3月には、八郎左衛門の老母が上京して、本山のためにとためてきた金300疋を上納しています。本山の再建を願って工面した金銭を自ら上京して上納する念願を叶えたことは、年配の女性にとって、どれほどの喜びであったでしょうか。  

 

3、学寮講者の法話録

深津家に伝わった万延元年(1874)3月刊行の香月院深励(こうがついんじんれい)師(1749~1817,「真宗人物伝〈17〉香月院深励師」)述『功徳大宝海』は、明治4年(1871)の静岡別院の創設に尽力した、旧幕臣であり漢学者の宮原木石(みやはらぼくせき)(寿三郎、1827~89)が、明治7年(1874)3月、静岡別院の絵伝等を拝領するために上京した折、丁子屋九郎右衛門にて購入したものです。どのような経か分かりませんが、その本が当家に伝えられました。この書物には、「深津所蔵印」「富賀津(ふかつ)」「含加楼(ふかろう)」という蔵書印【写真】が捺印されています。これは深津家の所蔵であることを示すためであり、深津家以外の人へ貸与することも想定して捺されたのではないでしょうか。同家のアイデンティティを示すものと言えるでしょう。近代初頭に学寮講者の法話録を入手して読書することで、篤信の門徒としての伝統が、同家で継承されていきました。  

 

■執筆者

松金直美(まつかね なおみ)