「聞」に立つ
(武田 未来雄 教学研究所所員)

賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(聖典四二三頁)

 
この文は親鸞聖人の『愚禿鈔』の冒頭にある文です。「賢者」というのは自分が出遇った師でありますが、ここで聖人は、この師の信を聞思してこそ、はじめて己(おのれ)が愚禿の心が顕らかになると言われるのです。その顕らかとなった「愚禿が心」とは、外には賢善なる姿を示そうとし、その内は煩悩にまみれ、愚かであったということです。賢者の信から聞くことによって、はじめてそのような己の姿が知らされたのでした。しかし、この顕らかとなった愚なる自己は、本願力回向の念仏によって生きるしかないと確定されるのです。
このように「聞」を通して己が姿が顕らかになるのであり、念仏の一道というものはどこまでもこの師教の聞思を徹底するところに成り立つのではないでしょうか。親鸞聖人の『愚禿鈔』冒頭の言葉は、私たちに、まず「聞」からはじまり、そしてどこまでいってもこの「聞」に立つことが大切であることを教えて頂いているのです。
曽我量深氏は布教伝道にあっても、この「聞」が大切であると指摘されています。
 

私達は仏教を説く口を開く前に正法を聞く心の耳を開くことを要する。…中略…限りなく語ろうとする所の宗教的伝道の要求の内には、そこに限りなく聞かうとする宗教的求道の願心が深く動いて居る。(『曽我量深選集』四巻一八〇頁)

 
まず仏教を説く「口を開く」前に心の「耳を開け」と言われます。それは、仏教を語り、それを他に伝えたいとの、こうした宗教的伝道の内には、限りなく教えにおいて真実の言葉を聞こうとする求道の願心が心の深いところに躍動しているからであると言われるのです。それは、どこまでも「愚」なる自己であるからこそ、真実の教えを聞こうとするのでしょう。
しかし、私たちは伝道の使命感ばかりにとらわれて、賢善なる姿を外に示そうとするのではないでしょうか。そもそも伝道は、何を、なぜ伝えたいのか、その根拠である心の深いところにある願心の躍動を忘れてはいけないのです。
 
どこまでも、私たち自身が真実に聞きたいと願うものを伝える。そのためには、私たち自身が先覚の信に聞く、この「聞」に立ち、自己自身の心を明らかにし、自分の本来立つべき立脚点を明確にする必要があるのです。
教学研究所は、本年(二〇一五年)七月に開館した「真宗教化センター しんらん交流館」に居を移し、新たな出発をしました。それに伴い、長らく高倉会館を会場に開かれていた日曜講演、親鸞聖人讃仰講演会等も新たに、しんらん交流館で開催されます。そのような中で、本誌掲載のコラムも、私たち自身が求道の願心に立ち帰ることを願って、新たに「聞」という名で掲載してまいります。
 
(『ともしび』2015年8月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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