「本願力に乗託する」とは
(武田 未来雄 教学研究所所員)

浄土に往生し救われることと現在日常の生活を送ることとがどのように関わるのか、問われることがある。そこで、あらためて善導大師が二種深信で表された「乗彼願力」(聖典二一五頁)、すなわち、かの願力に乗じるということが思われた。それこそが、凡夫が生死の迷いから抜け出し、浄土往生を得ていくための決定的な根拠であるからである。それは阿弥陀仏の本願のはたらきに「乗る」ということなのであるが、では、この「本願力に乗る」とは今を生きる我々にとってどのような意味があるのであろうか。
 
そこでもう一つ善導大師が「本願に託す」と言われる、次の文に注目したい。
 

問うて曰わく、「かの仏および土、既に報と言わば、報法高妙にして小聖階いがたし。垢障の凡夫いかんが入ることを得んや。」答えて曰わく、「もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣しがたし。正しく仏願に託するによって、もって強縁と作りて五乗斉しく入らしむることを致す」と。(聖典三二〇頁)

 
この文の問いの内容は、阿弥陀仏の浄土が報仏土であるならば、それは高妙で初心の聖者では達することが出来ない。まして煩悩具足の凡夫は往生出来るのか、というものである。それに対して大師は、阿弥陀仏の本願に託することによって、それが強縁となって、上位の菩薩から天人や人間まで斉しく往生することが出来る、と言われる。この文では「託」と言われるが、乗も託も共に本願力をたよりとするということである。
 
報仏土とは願いとその修行によって報いあらわれた仏土ということである。その当時の常識からすれば、報仏土に生まれるには、それに見合う願行を修めた聖者でなければらならないとされた。まして阿弥陀仏の浄土が報土であるならば、それは崇高な本願に不可思議兆載永劫の修行によって報いるという、あまりに報法高妙であり、凡夫の行業では到底つり合わないと言われた。善導大師は、そうした発想をひっくり返し、本願力に乗託することによって、誰でも阿弥陀仏の報土に生まれることが出来ると、これこそが仏の正意であると明らかにしたのである。
 
とするならば本願力に乗託するとは、阿弥陀仏の兆載永劫の過去から修せられてきた願行に自己を託し、未来に高妙なる報いを受けるということである。このような本願を始源とする兆載永劫の時間の流れに乗るとの意義が「乗彼願力」には含蓄しているのである。自力で為した行業で未来の果報を求めるあり方では、どうしてもそこに階級や差別が生じる。翻って現代の我々の日常のあり方を顧みれば、過去の行為によって、それは例えば学歴や職歴や犯罪歴などとして、将来の可能性がはかられ、現在に人間としての価値が決められている。そこに偏見差別などの人間の苦悩がある。往生浄土を乗彼願力によって得る意義には、そうした価値観とは別のものによって自己が位置づけられること、本願力時間の流れによる存在根拠の付与があるのである。それは同時に、「斉しく入る」との人間の連帯をも生じることにもなる。このように本願力による往生は、現代人が生きるための乗託すべき立脚地を提供するのである。
 
(『ともしび』2017年3月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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