「セカイ系」という風潮のなかで
(松林 至 教学研究所嘱託研究員)
もう二十年近く前、批評家の東浩紀氏は講演のなかで、
「最近の若い子は、すごく近いこととすごく遠いことしかわからない。それは小室哲哉の曲の歌詞からもわかることで、恋愛か世界の終わりか、今の十代はそのどちらかにしか興味がない。言い換えれば、恋愛問題や家族問題のようなきわめて身近な問題と、世界の破滅のようなきわめて抽象的な話とが、彼らの感覚ではペタッとくっついてしまっている」(『郵便的な不安たちβ』河出書房新社、二〇一一年)
と述べている。これは一九九八年の講演だが、その後もそのような傾向が若者のアニメ・映画・ライトノベルといった分野において指摘され、二〇〇〇年代に入るとそれらの作品は「セカイ系」と呼ばれるようになった。「主人公の個人的な問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品」を指し、現在も主にネット上で使われ続ける言葉となっている。
セカイ系の作品は、他者や地域や国家などの中間の距離の問題には触れない。そのことは娯楽作品の好みのうえで肯定的にも否定的にも語られるが、そういった兆候を指摘され始めた二十年ほど前に「最近の若い子」であった私としては、「すごく近いこととすごく遠いことしかわからない」という言葉の前に立ち止まらされるのである。
本山や教区での研修に長く関わらせてもらっているが、そこでしばしばあがる声として「聞かせてもらう仏法や、研修で取り上げる諸課題が、実際の現場とどうつながってくるのかがわからない」というものがある。仏法や諸課題から個人的に気付かされることは多くあったとしても、そのことが具体的な他者との関わりとして現場において見出せない。このことは、研修のあり方も問われなければならないが、私においては先の話に重ねて考えさせられるところがある。
私は仏法を「抽象的な話」として聞き、それでいて「きわめて身近な問題」とペタッとくっつけていないか。「十方衆生」と「この私」があまりにも簡単にくっつけば、その間の具体的な他者はごっそり抜け落ちていく。時代の風潮はそういった私の聞き方の問題を教えている。「身近な問題」しかわからないのではない。あらゆることが、「私」を問い返してくるような他者が存在しないところで「わかってしまう」という問題を思う。親鸞聖人は
「十方衆生」というは、十方のよろずの衆生なり。すなわちわれらなり(『尊号真像銘文』聖典五二一頁)
とおっしゃった。他者のことをわかりきった一人称で語るのでもなく、まったく切り離したものにもしない「われら」という在り方はどういうものなのか。
仏法は他者不在のセカイ系ではない。それは、聞いた仏法を使って他者と関わるからではない。「私」を立場にする限りどこまでいっても他者とつながれないという気づきが聞法によって与えられる、からだと思う。いつでも「私」というところで「わかって」いく在り方を知らさんとする如来の呼びかけを聞く。共に「十方衆生よ」と呼びかけられた者として、他者との世界が開かれてくるのが聞法であると私は教えていただいている。
(『ともしび』2017年7月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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