真宗門徒の生活
(楠 信生 教学研究所長)

欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。(『教行信証』「信巻」聖典二三七頁)

 
真宗では、聞即信と言われ、聞の大切さを説きます。そのことで、常々思うことがあります。それは自坊でのことですが、定例法要はもちろんのこと、毎月の法座にも欠かさず参詣されるご門徒の姿です。定例法座は月に二回、午前十時に始まって午後の三時までです。長い人生を生きてこられた方々が、時には自分の孫のような青年僧の法話を、じっと耳を澄まして聴き続けておられます。その方々は、難しい教義を口にされることはなくても、自分の信のありようを教えに尋ねながら、日々の生活を大切に生きておられるのです。
 
蓮如上人が「仏法には、世間のひまを闕きてきくべし。世間のひまをあけて、法を聞くべきように思う事、あさましきことなり。仏法には、明日と云う事はあるまじき」(『蓮如上人御一代記聞書』聖典八八二頁)と仰っていますが、日常生活の時間を減らして仏法聴聞の時間につかうべきであるということです。そのような選びをされて法座に身を据えて参詣しておられるご門徒です。法座に足を運ばせたご縁、聴聞へ一歩を踏み出す意志の背景には、真宗門徒の永い聞法の歴史があると思います。
 
次のような話を聞いたことがあります。ある若坊守さんが一人で留守番をしていたそうです。そこへご門徒が来られて、突然、法事の要請があったそうです。そのご門徒の方は若坊守さんがお勤めをしてくれればいいからということでしたので、言われるまま精一杯のお勤めをしたそうです。ところがお勤めだけで法話をしなかったので、叱られてしまいました、と話してくださいました。突然の法事の申し込み、その上、法話をしなかったとの叱責、つらかったけれども大切なことを教えていただいたと話してくださいました。法事には、法話をするのが当然という考え自体は、真宗ならではの有難いことであると思います。そして法事の折、もしも法話をできないのであれば、たとえば、これまで自分が読んで大切なことを知らされた本の一節でも読んで聞いていただくという方法もあったかと思います。このような聞法を大切にする宗風、そして、日常生活の時間を少しでも聞法につかうというのが、真宗門徒に伝統されてきたことでした。それが決して日常生活をおろそかにすることではなく、むしろ日々の生活を支える、日常をむなしく終わらせないという意味をもつのが、真宗の法話であり聞法生活であるということなのでありましょう。
 
私自身、意識して仏教の学びをするようになって五十年になろうとしております。到底、聴聞してきたと言えるものではありません。実際、学びを始めたころのことを思うと、たとえば、本願ということを聞いてもまるで雲をつかむような感じでした。また、念仏のいわれを聞くと教えられても、それが何の力になるのであろうと思いました。そのような私が、今、「聞」ということで思うことは、疑心の私への本願真実を証明する歩みであるということです。信不具足の金言も聞不具足の邪心という教誡も、共に生涯止まることのない聞法が願われていることであると思います。
 
(『ともしび』2018年4月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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