記憶の痕跡
(鶴見 晃 教学研究所所員)

子供のころ住んでいた寺には、大きなイチョウの木があった。寺は中学一年生のころ移転し木は切り倒されてしまったが、イチョウの葉が盛んに茂る初夏の季節、街路樹のイチョウを見ると、ふとあの大木を思い起こす。
 
そのイチョウの大木には、根元近くに大きな空洞があいていた。それは空襲の跡だと聞かされたと思う。先の大戦中、私の生まれた街は、激しい空襲や艦砲射撃によって焼け野原となり、寺も全焼した。大木は、その空襲の痕を幹にとどめていたのである。だからであろう、大木を思い出すと、家族やわが家だけでなく、戦争やその後の復興に関わった人々のことが思い起こされる。
 
こうした戦争の痕を遺した風景のなかには意識しなくては気づかないもの、説明が必要なものも多いだろう。その痕は、戦争を物語る痕跡であると同時に、戦争に向き合った人々の記憶を伝える痕跡でもある。戦争だけでなく、震災やさまざまな地域の記憶が伝えられ、聞かれなくなるとき、さまざまな遺構も痕跡であることを失う。
 
東日本大震災から七年が経つ。三月に訪れた東北では各地で工事が進められていた。さらに風景は変わっていくだろう。そしてやがてその新しい風景を故郷として育つ世代の時代になるだろう。しかし、三陸の地に伝承されてきた津波の記憶を人々は伝えていくに違いない。そして、その遺構や人々の震災の記憶を通して震災を思い、さらにそれを自分の記憶として伝えていく人を育てることになるだろう。
 
そこに伝わっていくのは何であろう。それは教訓という言葉に止まらないもののように思う。
 

心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ(内藤濯訳『星の王子さま』・岩波少年文庫五三・一一五頁)

 
『星の王子さま』の有名な一節であるが、見えないものを見るのは、心であり、伝わっていくのは、この心である。その心は、震災の恐ろしさを知る心であり、家族や友人や人生、そして家、故郷を失った痛み、悔しさ、懐かしさ、愛おしさに向き合う心であるだろう。それらの情念がそのまま伝わるわけではない。それは一人一人のものである。しかし、痕跡に震災と人々の記憶をたずねることによって、震災に向き合う心は伝わっていくに違いない。
 
私にとって大木は、家族、わが家、そして戦争を象徴する痕跡である。すでにない、記憶のなかの大木が、私の知らない、見えないものの存在をも象徴する痕跡となっている。大木という記憶としてもらったのは、懐かしい思い出だけでなく、遺された痕跡に見えないものをたずねる心であった。今はない大木、切り倒された大木は、私にとって今なお大切な風景である。
 
(『ともしび』2018年5月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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