大悲のおとづれ
(名和 達宣 教学研究所研究員)

今から十年ほど前、深夜にインターネットの中をさまよっていた時、あるブログで紹介されていた歌のタイトルに引きつけられた。
 
 ──「心細い時にうたう歌」。
 
うたうのは、タテタカコという当時は名も知らぬシンガーソングライター。早速取り寄せ、再生ボタンを押した。
 

寂しい寂しい ぼくだけ寂しい
体いっぱい臭わして 暮らしてた
苦しい苦しい ぼくだけ苦しい
世界一の不幸 背負っていた
心細い時にうたう歌 心細い時にうたう歌

 
美しい歌声とともに、音楽という領域を越えた何かが響いているように感じた。そして、自分がいかに強がって生きており、「寂しい」存在であるかということにも気づかされた。
 
それ以前にも、似たような経験をしたことがある。ベートーベンのピアノソナタ第八番「悲愴」を、初めて意識的に聞いた時であるが、その時、人の悲しみを包むのは、歴史を貫く大いなる悲しみであるにちがいない、と確信した。むしろ、大いなる悲しみに触れる時と、心底から「悲しい」という声が湧くのは同時、と言った方が、当時の感得を表す謂いとしては精確かもしれない。その事態が、浄土真宗においては「大悲」という言葉で教えられるのではないか。
 
その後、かのシンガーソングライターが、カンヌ国際映画祭で話題になった映画「誰も知らない」(是枝裕和監督、二〇〇四年)の挿入歌「宝石」の作者であることや、真宗大谷派の関係学校の卒業生であることなどを知った。そして、数年後には、雑誌『同朋』(二〇一二年五月号)でのインタビューの機会を得るとともに、そのインタビューがきっかけとなって、長崎県の寺院(正法寺)にタテタカコ氏を招いて開催された「倶会一処ライブ」という場で、法話の機会をいただいた。
 
そのライブの主催者である長野文氏(旧姓・甘城)は、タテタカコ氏の音楽大学時代の同級生であるが、彼女がかつて作詞した歌に、「大悲のおとづれ」とも言うべき視座を教えられた。
 

私季節はずれの霜をふんで いつものように家を出た その日の風は違っていた
変化の力に応えよう 流れをゆるめた川は
漂う力を味方にして ゆったり前に進んでいた(中略)
私の心も巡りだす
流れてみよう 巡るのなら 変わるのなら
漂う力を味方にして(甘城文「漂う力を味方にして」)

 
この詞が生まれたのは、愛する父親を亡くし、悲しみに沈んでいた時。その悲しみの只中に、いつもとは違う風、「変化の力」の訪れを感じたという。そして、自らをも包む大きな流れに身を任せ、新たな一歩を踏み出したというのである。
 
浄土とは「共に(倶に)生きる」世界であり、その功徳のはたらく場所は、不協和音の鳴り響くこの世界である。その浄土の「根」とも言われる大悲の出処は、次の『大経』の一節に見出すことができよう。
 

清風時に発りて、五つの音声を出だす。微妙にして宮商自然に相和す。(『真宗聖典』三四頁)

 
人は、大悲の音声を聞くことにより、やり直しのきかない人生を、生き直すことができる。その音を連れてくるのは――風である。
 
(『ともしび』2018年6月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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