宗祖の言葉に学ぶ
深く如来の矜哀(こうあい)を知りて、良(まこと)に師教の恩厚(おんこう)を仰(あお)ぐ。慶喜(きょうき)いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
(『教行信証』「化身土巻」、『真宗聖典』四〇〇頁)

表題の文章は、親鸞聖人の『教行信証』「化身土巻」の、いわゆる「後序」の言葉である。親鸞聖人は深く如来の慈悲を知られ、師である法然上人からの厚い恩があることを述べられている。そしてそのことを慶ばれ、恩に報いる思いを重く感じられている。この文章から親鸞聖人は、法然上人が亡くなられてから時間を経るごとに、いよいよ上人と仏への恩徳の深さや大きさを思われていることが感じられる。
 
そこから思い出されるのは、私自身もいかに多くの方々から教えていただいているかということである。今年、前教学研究所長の安冨信哉先生の三回忌の集いが執り行われることもあって、先生から教えていただいた御恩にあらためて気づかされている。
 
印象深いのは、研究所内で『教行信証』「化身土巻」について学んでいた時のことである。私は経論をもとに仏教と仏教以外の思想や宗教の差異について話していた。その際に先生が厳しく、そして優しく小さな声で「もっと広く学ばなければね」とおっしゃった。
 
私としてはその言葉を聞いた時、意外に感じたことを覚えている。私はできる限り広い視野から学ぶことを目指し、真宗以外の仏教のみならず、様々な宗教や哲学についても学んでいたからである。その時の私は、先生が話された言葉の意味を考えるばかりで、先生にその言葉について尋ねることをしなかった。だから今も先生の真意はわからないままである。しかし振り返って思えば、当時の私の心には、真宗をはじめとした仏教のみを絶対化して肯定し、それ以外の思想や宗教については相対化して否定する、そのような思いが潜在していた。つまりある種の排他的な傾向が残存していたように思うのである。そこから考えてみれば、先生の言葉は私の学びの範囲の狭さについてではなく、真に広く学ぶ意義について述べられたのではないかと思う。つまり学ぶことによってセクト化し、他を否定するような閉鎖的な学びではなく、様々なことから教えられることによって自らが開かれるような学びの必要性を述べられたのであろう。
 
それは様々な経験を通して感ずるようになったことである。さらに言えば、その閉鎖性は当時すでに自ら思っていたことでもあった。しかしそれが問われるべきことであると思っていなかったのかもしれない。そこから当時の自分にとって大きな出来事であると感ずることはなかったのである。しかし時を経るごとに自ら思うだけではなく、先生から直接、教えていただいたことの大きさ、その恩徳の深さに気づかされている。同時にそれを慶ぶとともに報恩の念が生じている。
 
しかしどのように恩に報いるかということは難しい問題である。安冨先生をはじめとした多くの方々から教えていただいたことにどのように報いていくのか、そのことが厳しく問われている。恩に報いることになるかどうかわからないが、今まで通り教えていただいたことを大切にしながら、縁あるところでそのことをお伝えできればと思っている。
(教学研究所助手・都 真雄)

[教研だより(153)]『真宗2019年4月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。