宗祖の言葉に学ぶ
専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ
(『教行信証』「総序」、『真宗聖典』一四九頁)

親鸞聖人は『教行信証』「総序」の文で、「専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ」と述べられる。行はつかえるものであり、信は崇めるものであるといわれる。
 
「つかえる」というのは、多くは「仕える」「事える」と書き、目上の人のそばにいて、その人のために働く、官などについて職を行うことなどを意味する。主従の関係で言うならば、従たる立場を表す言葉である。親鸞聖人が「化身土巻」末に引かれる『論語』の文の中の「えん」は、端的にその意味を表している。
 

『論語(ろんご)』に云(い)わく、季路問(きろと)わく、「鬼神(きじん)に事(つか)えんか」と。子(し)の曰(い)わく、「事(つか)うることあたわず。人いずくんぞ能(よ)く鬼神(きじん)に事(つか)えんや」と。(『真宗聖典』三九八頁)

 
親鸞聖人は、「人たるものが、どうして鬼神に事えることが出来ようか。事えてはならない」と読まれている。鬼神を主として人間が従であってはならないと注意しておられる。世間一般の信仰対象は、見えざるものへの素朴な畏敬感情のみで「つかえる」ことになっていないか問題である。
 
『教行信証』「総序」で「この行に奉(つか)え」と言われていることと、「化身土巻」末で「事(つか)うることあたわず」を引文されていることとは、単なる偶然ではないのであろう。「この行に奉え」るところに仏道があり、「鬼神に事え」るところに外教邪偽の虜(とりこ)となる。
 
「この行に奉(つか)え」の「奉」は、「仕える」「事える」とあらゆる意味でまったく別な義とまでは言えないが、少なくとも親鸞聖人が「奉」という字を使われたところには、「つつしんで、うやうやしくつかえる」という意が込められていると考えられる。
 
「この行に奉え、この信を崇めよ」とは本願力回向の名号に謹んでつかえ、本願力回向の信心を仰ぎ尊(たっと)べということである。称える者を超えた名号であり、信ずる者を超えた信心である。名号は聞くものであり、信心は賜るものであるといわれる所以である。
 
私たちの実際は、執によってあらゆる知識と経験を自身の域内のものとしてみる習性をもっている。そのような人間の心に妥協しない行信が回向されてあるのである。つつしんで、うやうやしくつかえるのは、行信に真実を見出し、自心の中にあまりにも危うきものを見出したことであり、隷従を意味するものではない。
 

ただねんごろに法に奉(つか)えて、畢命(ひつみょう)を期(ご)として、この穢身(えしん)を捨てて、すなわちかの法性(ほっしょう)の常楽(じょうらく)を証すべし、と。(「証巻」観経疏の文、『真宗聖典』二八三頁)

 
「この穢身」の自覚こそが「奉え、崇める」ことの内実である。親鸞聖人は、自らの力で穢身からの解放が不可能である事実を「恥ずべし、傷むべし」(『真宗聖典』二五一頁)と述べられた。穢身を捨てることのできぬ身の深信は、「つかえ」ることが自己を失うことではなく、却(かえ)って自己を回復する道であることを教える。穢身を捨て得るときはこの身の命終わるときであるという現実を忘却して、行に迷い信に惑う。あらためて「奉え、崇める」と親鸞聖人が説かれたことの意義をたずねる必要を、今、感ずることである。
(教学研究所長・楠信生)

[教研だより(154)]『真宗2019年5月号』より
※役職等は発行時のまま掲載しています。