二人の死におもうこと
<解放運動推進本部本部要員 蓑輪秀一>

 本年五月九日、美知宏さん[全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)会長]がお亡くなりになり、それを追うように五月十一日、雄二さん[ハンセン病国家賠償訴訟全国原告団協議会会長]がお亡くなりになった。ハンセン病隔離政策による被害の、全面回復に向けての闘争運動の指導者でありけん引者であり、まさに巨星というにふさわしい二人の突然の死であった。二人に出会い、その人柄や強い意志にふれ、その問いかけに応えながら歩んだ道程を、どれだけの多くの人々が悲しみの中で振り返ることになったであろう。
 一九三一年、事件を機に満州事変が勃発、日本は以後十五年に及ぶアジア・太平洋戦争に突入する。この国家総力戦は国の政治や社会を大きく変え、優生思想が吹き荒れる中、同年には「予防ニ関スル件」が大幅に改正(「癩予防法」と名前つく)され、ハンセン病を発病した人々全てを対象にした強制隔離政策が一層強くなっていく。そういった時代に二人はお生まれになった。
 谺さんが七才で多磨全生園に入所したのは一九三九年だが、前年には皮肉にも生涯をかけて闘うこととなった厚生省が設立されている。「健康報国」とのかけ声のもと、厚生省は戦争のための国民体力の強化を押しすすめた。その一方で病者や障害者は「非国民」視され、ハンセン病発病者もその例外ではなかった。母親と兄と共に療養所に入所した谺さんであるが、戦争と過酷な療養所生活により、母親と兄はその命を終えることとなった。その深い悲しみと怒りは、社会活動家としての行動となり、また詩人としての湧き上がる言葉の源流となったのであろう。「いのちの証を見極める」ということが谺さんの徹底したテーマであった。「いのちの証」を「国家」に対して徹底的に問うという姿勢は、このような強制隔離と戦争の時代の中で、沸々と醸成していったのだと感じる。

「らい予防法」改正闘争(1950年代の大島青松園)

 神さんは一九五一年、十七才で大島青松園に入所されている。同年には全療協の前身である全国国立療養所らい患者協議会が発足している。またその年、療養所の園長三名により、さらなる強制隔離や断種の必要性を強調するという入所者のいのちの尊厳を無視した国会証言があった。これを発端に、この年から入所者による「癩予防法」改正闘争が始まっている。神さんは入所されてから病気の治療に専念し、例外的退所を認められたが退所することはなかった。それは十七才で入所された神さんが、その当時から「癩予防法」改正闘争における先輩たちの姿を見てこられたからであろう。その方々の意志を受け、神さんはその生涯を闘争に捧げたのだと思う。
 「らい予防法」廃止、国賠訴訟勝利、検証会議やハンセン病市民学会の立ち上げ、ソロクト台湾訴訟の解決、ハンセン病問題基本法の制定、将来構想の策定、療養所職員定員問題解決のための実力行使。二人のハンセン病隔離政策の被害の全面解決に向けての闘いは近年だけをみても多忙を極めた。神さんは、そんな全療協五十年間の運動を振り返り、国に対してのハンセン病隔離政策の被害者の正当な要求が成就しない理由を、「隔離をされた中での運動に終わっていた」と自省をこめて総括された。そして、次への運動の主軸を「より多くの市民にハンセン病問題を知っていただき、より多くの市民に動いていただく運動にしていきたい」と語ってくれたことがある。家族や入所者、退所者等、全ての隔離政策による被害者に寄り添い、国との困難な交渉と人間の尊厳を取り戻すための運動を、生涯をかけて続けられてきた言葉だ。
 現在の入所者の平均年齢は八十三才を超える。そして、いつか当事者の方々がいなくなる日を迎える。そんな中で私たちに出来ることは、より多くの人々がハンセン病問題を知り、問いかけを担い、そして未来に語り継ぐことだ。
 二人に出会った者なら、あの人柄がにじみ出るような声と、その人生を物語る口調を今でも鮮明に思い出すことであろう。二人はもういない。しかし、耳の底に残る声を聞きながら、二人の生き方に学び、その願いを自らを照らす光としていきたいと思う。そしてハンセン病問題の枠を越えた、人間といのちに対する二人の眼差しを忘れないでいたいと思う。ありがとう谺さん、神さん。
 
  「いのちの証」谺 雄二
  人権とは侵しても侵されてもならぬもの
  国辱として抹殺を謀り
  果ては老化へ追い込んでの飼い殺しか
  こんなことどうして許せよう
  この国からきっとたたかいとる
  いかに生きたか
  人間の尊厳そのいのちの証
『死ぬふりだけでやめとけや 雄二詩文集』
(みすず書房)より
 

《ことば》
帰るつもりだったからね

「帰るつもりだったからね」。私がハンセン病問題に関わり、入所者や回復者の皆さんと話をする中で何度か聞いた言葉である。何気ない会話の中で、ふとおっしゃっていた。鈍感な私は何も気付けなかったが、よくよく考えると重い「ことば」である。
私は三年前から大阪教区の中で「ハンセン病問題を共に学ぶ実行委員会」の実行委員としてハンセン病問題に関わり、三園合同花見や交流会にも参加させてもらっているが、差別や人権侵害の歴史をついつい忘れて話し込んでしまう。それは、失礼かもしれないが身近な老先輩と話すのに似ている。
「帰るつもりだった」とは、故郷に帰ろうとしても帰ることができなかったことの表明であり、また、その悲しみの表現のようにも感じられる。
まだ終わっていないのだ。私がつい聞き流しそうになった言葉から実感させられた。深い悲しみを経験された方々の声をこれからも聞き続けていきたい。
(大阪教区ハンセン病問題を共に学ぶ実行委員・荒川裕信)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2014年9月号より