大谷派謝罪声明二十年をどう受けとめるか
 内・外が共に解放される歩み

<真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会 広報部会 本間 義敦>

 一九九六年に「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」が出された当時、私はまだ中学生でした。テレビや新聞の中でしかハンセン病のことを知らなかった私が、ハンセン病の療養所に実際に足を運び、交流をするようになったのは七年程前からです。
 私の住む青森市には国立療養所松丘保養園があります。毎年、教区では交流会・報恩講を行い、その他にも療養所主催の観桜会や納涼祭等に参加をさせてもらっています。奥羽教区で松丘保養園と交流をもつようになったのは、謝罪声明が出される直前からだったと、先輩から教えてもらいました。この間をずっと関わってきた教区の先輩と、回復者の方にあらためてお話を伺った中で、私自身の七年間の関わりとこれからを考えていきたいと思います。
 二十年前の「謝罪声明」にはどんなことが書かれていたのか。どんなことを私たちは謝罪したのでしょうか。
 

謝罪声明を考える

 謝罪声明では、「真宗大谷派は、これらの歴史的事実(教団の行為と在り方)を深く心に刻み、隔離されてきたすべての「患者」と、そのことで苦しみを抱え続けてこられた家族・親族に対して、ここに謝罪いたします。また同時に、隔離政策を支える社会を生み出す大きな要素となる「教化」を行ってきたことについて、すべての人々に謝罪いたします」と謝罪の内容について述べています。そして最後に、「同時に、私たち自身が継続的な「学習」を続けていくこと、そして「教え=ことば」が常に人間回復・解放の力と成り得るような、生きた教えの構築と教化を宗門の課題として取り組んでいくことをここに誓うものです」と結ばれています。
 そこには、私たち自身が継続的な学習をすると述べられています。つまり謝罪声明を出したということが終わりではないということと、一人ひとりが学びを深めるということが誓われているわけです。このことはどんな社会問題にも通ずることでしょう。「私たち自身」とは、専門家だけがそのことを課題にするのではないということ、「継続的な「学習」」とは忘れないということでしょうし、歴史的事実を受け止めるということでしょう。
 

私の実際

 ところが、お寺で開いている同朋会の座談で、あるご門徒の方が、「ハンセン病の病気は治ったのはわかったけど、共にと言われると難しい」と言われたことがありました。絶対隔離政策や「無らい県運動」による差別・偏見の根深さを感じるとともに、療養所で交流をもってきた私としては非常にショックでした。ハンセン病問題についてきちんと伝えてきたのに、どうしてだろうという思いがしました。
 ある時、長年療養所に通われている先輩にそのことを相談しました。その方は私に、「そうか。ところでそう言ったご門徒さんと君は共に歩んでいるのか?」と逆に問われました。私は謝罪声明に書かれている人間回復・解放の力を外に見いだし、いつの間にか自分は解放する側に立っていたということです。そこに、「内と外が共に解放される」こと・「継続的に学び続ける」という姿勢が欠けていたことに気付かされました。
 

「待っている」

 今年も十月の初頭に松丘保養園で白道会(日蓮宗を除く各仏教宗派の信徒の会)の報恩講が勤修されました。三十数名の参加者のうち、園からは十二名の方がお参りに来てくださいました。今年初めて参加したという方もおられました。お勤めの後に交流会へと進み、恒例のビンゴ大会をするなど和やかに時間が過ぎていきました。
 交流会が終わってから、私と教区の先輩と二人で回復者の方の家を訪ね、お話を伺いました。この二十年、大谷派が交流会をしてきたことにどんな思いがあるのかと尋ねると、その方は「毎年楽しみに待っている」と言われました。その「待っている」という一言に、とても大切な意味を感じます。私たちは今も昔も、「共に生きたい」という願いをかけられ、共に歩みだすことを待ってもらっていたのではないでしょうか。
 謝罪声明の中にある「謝罪を出発点として、過去から現在までの差別と偏見から「療養所」の内と外が共に解放されていく歩みが始まらなければならないと考える」という言葉は、共に解放されるのを待たれていることを意味するのではないでしょうか。その回復者の方は最後に、「謝罪は、謝罪したのだから、療養所に来て交流を一緒に楽しめばいいではないか」と言ってくださいました。
 

二十年後はどうなのか

 それぞれの療養所は高齢化がどんどん進んでいます。国は最後の一人まで面倒をみるということを決めました。私たちはどうなのでしょう。極端に言えば、誰もいなくなったらこの問題に関することは考えなくなってしまっていいのでしょうか。謝罪声明から二十年が経ち、療養所の平均年齢は八十四歳です。交流の時間が限られているのは当然のことながら、その後のことも考えなくてはならないところに私たちはいます。
 「生きた教え」が構築されるだけでなく、生きてはたらき続けていくために、私たちは活動しなくてはならないのではないでしょうか。
 

《ことば》
実はね、近くに親類が住んでいるから名前は出せないの。
迷惑がかかるからね。
―ある回復者の方―

 二〇一一年、三重県庁での講演会と回復者の方の里帰り作品展を準備していた時のことです。療養所で陶芸作りに励む女性から作品をお借りする時、「園名で出品します」と、お返事がありました。今も園名を使われていて慣れているからかと、さして気に留めずに過ごしました。
 作品展が終わり、返却の為に療養所へお伺いした時に、「開催場はね、実は、近くに親類が住んでいるから名前は出せないの。迷惑がかかるからね」「陶芸関係の仕事だから間違っても名前が知られるといけないから」と話されました。後に、あるハンセン懇委員から、ある療養所の調査では、五割以上の方が本名を使わず、園名で過ごされていると報告がありました。名前を名乗ること一つを取って見ても、その問題の深さに驚かされるとともに、あらためて、一人に出会い、ひとりの思いを聞かせていただけるように取り組んでいきたいと思います。
(三重教区・鈴木勘吾)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2015年12月号より