第10回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会
 第一分科会報告「国家とハンセン病問題」

<真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会広報部会 飯貝 宗淳>

 交流集会第二日目には、長島愛生園、邑久光明園を会場に三つの分科会が開催されました。この号では第一分科会の報告をいたします。
 
パネリスト─
德田靖之氏(弁護士)
(カン) 善奉(ソンボン)氏(ソロクト百周年記念百年史編纂委員・ソロクト院生自治会監査)
(ライ) 彩雲(サイウン)氏(楽生保留自救会副会長・IDEA Taiwan)
(キョ) 玉盞(ギョクセン)氏(楽生保留自救会理事・IDEA Taiwan)
長谷(ながたに) (まさし)氏(真宗大谷派沖縄開教本部職員)
コーディネーター─
訓覇(くるべ) (こう)氏(ハンセン病問題に関する懇談会真相究明部会)
 

海を渡った「らい予防法」

訓覇浩 ソロクト慈恵病院(現在の韓国国立ソロクト病院)、台湾楽生院(現在の台湾楽生療養院)とは日本が植民地にしていた時に作ったハンセン病療養所です。そこでは隔離政策と植民地政策が同時に進められました。また隔離政策において、沖縄にも独特の歴史があります。隔離政策の実態とは一体どういうものであったのか、聞いていきたいと思います。
 日本植民地時期の被害と影響について報告いたします。当時、入院患者が守らなければならない項目が二十七ありました。いくつか申し上げますと、「天皇陛下のご恩を常に忘れてはならない。許可なしで一定の区域の外に出ることはできない。神社へ参拝すること」などでした。違反すると監禁室へ収監され、懲罰として断種手術が行われ、死亡者は死体解剖が義務的に行われました。また、強制労働として松脂採取、レンガ製造、兎毛皮生産等が課せられました。現在はソロクト海峡大橋によって自由に往来ができ、近代的な文化と医療サービスを十分に受けることのできる生活をしています。歴史をどう伝えていくかについて、今は百周年記念の『ソロクト百年史』の編集をしております
 私は一九六七年に台湾楽生療養院に入所しています。制度上は強制隔離が無くなったとされる年代です。私は、単に病気を診察してもらうだけのつもりで楽生院に行ったところ、そのまま帰してもらえず、住み続けることになって現在に至っています。
 私は楽生院に二十一歳の時から六十二年間暮らしております。長い間暮らしておりますので、療養所での生活にすっかり慣れてしまいました。国が楽生院に地下鉄の車庫を建設しようとして、反対運動を始めてから十年余りになります。壊されてしまった旧地区の建物は全然修理してくれず、居住環境の悪化が続いています。
長谷暢 一八七九年の琉球併合後、日本の法律が適用されるようになりましたが、沖縄は台湾、韓国と同じく日本「本土」とは別の外地として少し下にみられました。さらに沖縄戦では本土の「捨て石」にされる中、兵士に感染しないようにと、軍によるハンセン病患者の強制収容が行われました。また沖縄戦後のアメリカ軍統治下においても、アメリカ本国ではハンセン病患者の開放医療がされていたのにもかかわらず、沖縄では隔離政策が継続されました。
 

「国を問う」

德田靖之 姜さんからご報告がありましたように、韓国、朝鮮における日本の植民地時代の隔離政策とは、民族としての尊厳をはぎ取る、人間としての尊厳をはぎ取るという形で展開されたところに大きな特徴があると思います。韓国・朝鮮の人が火葬に付されるということは、まさに民族的なアイデンティティを焼き尽くすに等しいことなのですが、火葬も強制しています。また、ソロクトでは断種手術を優生手術ではなく懲罰として行いましたので、十代の少年たちも断種手術をされています。強制労働についても日本での「患者作業」とは違い、療養所の運営資金を稼ぐための労働でした。
 またアメリカ軍政下の沖縄においては、アメリカ本国と沖縄とのダブルスタンダードでハンセン病施策が行われています。こういうところに、植民地において国家権力が牙をむくということが明確に表れています。そのことを踏まえた上で、一九四五年の解放後も、韓国でも台湾でも、日本のハンセン病隔離政策を継承しているわけで、これは驚くべきことです。
 国家というものは、不要なもの有害なものを捨てていくために社会をも動員して隔離を徹底させた後に、こういう病気になってしまった自分たちが国にお世話になっている、という意識を植え付けていきます。
 入所者の方々がハンセン病国賠訴訟を起こす時、とてつもない勇気を必要としました。一つには家族に迷惑をかけはしないかということが大きかったのですけれど、内面的には「お世話になっている国に対して裁判をするというのはどういうことなのか」という問いに、非常にとらわれていくわけです。
 その「お世話になっている意識」から解き放たれたうえで、自分の苦難の人生を語ることを通して、被害からの解放、回復が始まっていく。それが人間としての尊厳の回復、個としての尊厳の回復につながっていく。「国を問う」とはそういうことなのかなという感じがしております。
 日本政府はあらゆる戦後補償を頑なに拒んでいます。唯一の例外が韓国のソロクト、台湾の楽生院の問題です。ハンセン病補償法を改正して、日本が戦前に作った海外の療養所における隔離被害を受けた人々全員に慰謝料を支払うこととなり、約五十憶円、六百二十人の方が一人八百万円を受け取っておられます。
 

「家族訴訟」の被告とは誰か

德田 最後に家族訴訟について、今年三月に五六八名の方がハンセン病の元患者の家族だった者として裁判を起こしました。形式的な被告は国ですが、国の責任はすでに熊本地裁判決で確定しています。家族の被害とは、社会の中で差別偏見にさらされ、生きていくことを著しく困難にさせられたことです。隔離とは国家が行っているのですが、末端での加害者の役回りは、社会を構成するそれぞれの立場でおられた一人ひとりなのです。ですから、今回の家族訴訟の被告席に座るのは私たち国民一人ひとりではないでしょうか。自分たちが広い意味での加害責任を負うということを念頭に、熊本の裁判所を毎回取り巻くような国民的な支援をお願いしたいと思います。
(抄録)
 
 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2016年9月号より