「まかせよ まかせよ」如来の声 「おまかせします」 私の声

鈴木章子
出典:『癌告知のあとで』

本文著者:四衢雅美(北海道教区智德寺坊守)


 この言葉には続きがあります。

「ここにもどってこい」諸佛(しょぶつ)の道案内の声
「そこへ行きたい」私の道確認の声
「事実を知れ 見よ」先師のお催促の声
「私のおもいでした」私の無明の破られた声

 お念仏の声を聞き、応えて生きる人の表白です。鈴木章子さんが、癌の身を生き、命がけの問いの中から生まれた言葉です。
 私は僧侶として、坊守(ぼうもり)として、お寺をお預かりしています。
 私は在家に生まれ、仏教とは全く無縁に育ちました。たまたま入学した大谷大学で真宗の教えに出遇い、たくさんの方々とのご縁をいただき、今日まで歩ませていただきました。
 何一つ、私の力ではありません。大谷大学に入学したこと、先生との出遇い、私を衆徒(しゅと)として得度(とくど)させてくださったお寺との出遇い、みんな仏さまからいただいたご縁です。
 それなのに、そんなことは忘れて、自分の力を頼り、自分の力でなんでもできるとやってみては、できない自分に落ち込んだり、ちょっとうまくできると、思い上がったりして生きています。
 そんな私に、この言葉は、「あなたはいったい何をしているの? 仏さまからいただいたいのちの願いに生きていますか?」と問いかけられるのです。いつもいつも、仏さまを忘れてしまう私に、こうして仏さまは呼びかけてくださいます。
 私の息子は、いくつもの病気を抱え、入院、手術も何度もしました。私は、「どうしてうちの子だけがこんなめにあうのだろうか?」と元気な子どもたちを見るたびに思うのです。
 でも、息子はその身をもって、私に仏さまの世界を教えてくれていたのです。病気の人の苦しみ悲しみ、その家族の苦しみ悲しみ、そして社会の偏見、いろんな事実に、そして人を羨(うらや)み妬(ねた)む私の心を気づかせてくれました。
 それはそのまま、「人々の苦しみ悲しみとともに、仏さまからいただいたいのちの願いに生きるものとなれ」と呼びかける如来の姿であり、「いのちの願いに生きたい」と私を仏道に立たせてくださる如来の声でした。
 また、私が得度させていただいたお寺に、藤原正遠先生がおられました。私がそのお寺から帰るとき、いつも外まで出てくださり、「お念仏なさい」と合掌してお見送りいただきました。
 辛いとき、苦しいとき、悲しいとき、いつも先生のお姿を思い出して、私は独りぼっちじゃない、願われていたんだと、生きる力をいただきます。同時に、願いに背いて生きる自分を教えられ、願われてある一人として果たすべき責任の重さを感ずるのです。
 如来の声は、「南無阿弥陀仏」というお念仏の声となり、いろんな声や姿となって、いつも私に呼びかけてくださっています。そしてその声が聞こえたとき、生きる勇気が湧いてくるのです。
 でもすぐ忘れて、自分の勝手な思いにがんじがらめになって、愚痴ばかりの空しい毎日を過ごしてしまう。
 そんな私に、いつでも何度でも、「まかせよ まかせよ」と如来は呼びかけ続けてくださっているのです。
 「おまかせします」と私が本当に言えるまで、ずっと、ずーっと。

 


東本願寺出版発行『今日のことば』(2013年版【7月】)より

 

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2013年版)発行時のまま掲載しています。

 

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