-京都教区の大谷大学業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌が発行されています。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈20〉松金憲雄
(『すばる』741号、2018年2月号)

松金憲雄写真(安專寺所蔵)

松金憲雄写真(安專寺所蔵)

 

1、短歌を志した青年期

(まつ)(かね)(けん)(ゆう)(1910~85)は、富山県()()()(かけ)(ふだ)に所在する、(あん)(せん)()の17代住職を務めた僧侶です。高座説教を得意とする布教使として活動した一方、歌人として約2000首の短歌を残しております。没後3回忌法要記念に、遺歌集『ほととぎす』が刊行され、そこに約500首が掲載されています。それらをもとに、憲雄の生涯をたどってみたいと思います。

 

明治43年(1910)10月9日、憲雄は安專寺16代住職である()(ほう)(1883~1936)の長男として生まれました。18才の昭和3年(1928)に『越中新聞』へ初めて短歌を発表しており、この頃には、歌へ本格的に取り組みたいという思いが芽生え始めていたようです。翌4年、大谷大学専門部に入学し、大谷大学教授であった萬造寺斉の歌に出遇い、歌の師として傾倒していきます。

 

萬造寺の自宅で開かれた歌の会に出席するようになりますが、最初は他の参加者から発表した歌に対して厳しい批判を受け、未熟さを痛感したようです。しかし萬造寺が「この作者は何かを言おうとしている」と述べた言葉が励みとなり、その後も萬造寺のもとで開かれた短歌会に出席し、さらに歌誌『街道』へ、同人として頻繁に歌を投稿しました。大谷大学では昭和七年まで学生生活を過ごし、同年に名残惜しい学生生活を次のように歌っています。

  共共に学び語らふ日もいつか

   残り少なくなりにけるかも

 

2、谷村の山寺での生活

懸札は、石川県との県境にある山あいの自然にあふれた村です。

  越中と能登との(さかい)(むじな)住む

   山のふもとぞおのが谷村

 

初夏には、境内の木々も芽吹き、つばめも訪れました。

  庭木立萠えて明るき山寺や

   初つばくらの訪う日となりぬ

 

次の歌からは、村の人々の生業と雪深い気候を知ることができます。

  炭を焼き草鞋(わらじ)を作り(むしろ)織り

   雪の消ゆるを待てる人人

 

このような谷村の山寺で報恩講が勤まれば、村人が集いました。

  いただきて御伝鈔を読む堂ぬちに

   男女老少満ちあふれたり

 

そして自然の厳しい山寺の住職を務めながらも憲雄は、勉学に励みました。

  冬の夜のこの言ひ難き寂莫を

   逃れむとしてもの学びする

 

昭和10年(1935)、憲雄は25才で妻・雪子と結婚します。

  わが家を今日より君はおのが家と

   よろづにつけてやすらかにあれ

そして4人の子供に恵まれました。子供をはじめとする家族に対する愛情も、多くの歌にたくしています。

 

また父・持法の妹である叔母・(はな)()が、能登の(うの)(うら)(石川県七尾市)にある称念寺(能登教区第11組)へ嫁いでおり、その家族とも親しく交流し、昭和26年(1951)の夏には訪れています。

  叔母の家訪ふ初旅の子供等は

   前の夜よりはしゃぎ廻れる

普段、山に囲まれた環境で生活していた憲雄家族にとって、海に近い鵜浦へ行くことはとても楽しみだったようです。

 

3、貧困と長男の死

山寺を預かる生活は厳しいものでした。山寺を支え、家族を養うためもあり、憲雄は布教使としても活動します。

  金のため布教をするにあらねども

   (びん)(ぼう)(てら)(すべ)もなきかな

 

そして昭和27年(1952)2月12日には、6才の長男・法幢を病で亡くしています。貧困ゆえ、充分な医療を受けさせられなかったためとも言います。

  諸行無常身にしみて知るわ子の死は

   吾をみちびくえにしなりけり

 

65才となった昭和50年(1975)には、札幌別院へ1ヶ月間布教へ行っています。

  海越えて来たる使命に加護あれと

   まづ本堂にまゐりて祈る

 

北海道へは度重ねて布教に赴き、布教使の宿業でしょうか、昭和51年1月11日朝、札幌別院で布教中に脳卒中で倒れてしまいました。氷見へ戻るものの、その後は入院生活を余儀なくされます。そして昭和60年(1985)10月7日、74才の生涯を終えました。

  過ぎてよりものを悔ゆるは愚かなり

   悔いなき日日を吾は送らむ

様々な挫折と苦悩を経験し、もがきながら、それでも悔いなきようにと歩み続けた人生でした。

 

■参考文献

『ほととぎす 松金憲雄遺歌集』(松金龍音、1987年)

 

 

■執筆者

松金 直美(まつかね なおみ)