難思の弘誓は難度海を度する大船、 無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
(『教行信証』総序、『真宗聖典』一四九頁)

新型コロナウイルス感染症が流行して以降、自宅で過ごす時間が多くなり、以前よりインターネット上の動画を視聴する機会が増えた。

 

ある時、戦争の問題を研究する一環として、殺人などの重大犯罪を繰り返す人々に関するノンフィクションを観ていると、その中で犯人たちが、ひどく傍若無人な行動をとっていた。そこから改めて、他者の気持ちを感じとって行動する大切さを強く思った。

 

しかし一方で、そのように思いながらも、日々の現実の生活において、常に他者の気持ちを感じ、尊重し続けるのは容易なことではない。第一に、人によって感覚が異なるだけでなく、外面に真意が表れていないこともある。よって他者がどのように感じているかを真に知ることは難しいからである。第二に、人間自体が自己中心的な性質を有しているからである。それについて大乗仏教の唯識思想では、深層的な意識において、抜き難い我執のあることが説かれている。

 

 

そのようなことを思っていると、不意に『教行信証』総序の劈頭にある表題の言葉を思い出した。現代語訳としては「私たちの考えのおよばぬ阿弥陀仏の大いなる誓願は、渡り難き海を渡す大きな船であり、さわりなき光明は、無明の闇を破る恵みの太陽である」となる。ここには法蔵菩薩の本願と阿弥陀仏の光明が表され、他力のはたらきが示されている。

 

この言葉を思い出すと同時に、私には日々の生活において、太陽とともに船の喩えも重要な意味を持つと思えたのである。太陽が闇を破るように、阿弥陀仏の智慧の光明は、私たちの無明を破り続ける。そして仏教において長い歴史を有する船の喩えを、宗祖は深い自覚に基づいて用いられ、読む者がそこから多くを教えられるのである。

 

表題にある大船とは、巨大な帆船のことであり、さらに実際、船に乗っていることを想うと、船の上でどれほど人間が動き騒ごうとも、船の航行に影響はない。つまり私たちが我執によって表面的にどのように感じようとも、他力によって浄土に往生せしめられる。そのような意味が見出される。

 

また私たちは無明の中におり、感覚としては、大船に乗っているのか、あるいはそれが動いているのかすら、わからないとも言いうる。しかし念仏の教えは、あらゆる人々の教えであり、易行道であるわけである。私たちが我執によってどのように思おうと、私たちの大船は他力の風を帆に受け、渡り難い海を渡っていると言いうるだろう。

 

改めて表題の言葉から、他力のはたらきが私たちの思いを超えたものであることを教えられた。

 

(教学研究所助手・都真雄)

([教研だより(173)]『真宗2020年12月号』より)