「東本願寺の消防を担った人々」
(松金 直美 教学研究所助手)

 

東本願寺の所在する都市京都は近世以来、度重ねて大火に見舞われた。東本願寺は、一七八八(天明八)年一月三十日の天明大火をはじめとする四度、両堂などが焼失する火災に遭ったと知られるが、それ以外にも度々、火災の危機に瀕した。

 

近世の東本願寺に、独自の消防組織は整備されていなかった。火災が起こった時、早急に駆け付けて消防にあたることを東本願寺が求めたのは、五ケ村(天部村・六条村・川崎村・蓮台野村・北小路村)という、いわゆるエタ村の人々であった。これは社会や教団の差別的な構造に基づいているが、一方で、社会的役割も果たしていた。

 

六条村は東本願寺からもほど近く、天部村とともに五ケ村を統轄する立場にあった。一七二五(享保十)年三月二十九日、東本願寺普請方役人は、六条村へ御礼として酒を持参した。それは先日、近辺で出火した際に出動を依頼したところ、村方門徒中がすぐに駆け付けてくれたことに対するものであった。

 

また一七四九(寛延二)年八月九日には、東本願寺の台所から出火して、御殿・対面所や蔵などが焼失してしまったものの、六条村の人々が駆け付けて消火にあたった。そのため、両堂などに燃え移ることは免れたようだ。東本願寺第十八世の従如上人(一七二〇~六〇)は大変喜び、直接、六条村の門徒中に御礼を伝えた。

 

火災という緊急時、消防にあたる出動を、東本願寺がまず五ケ村の門徒に要請したのは、京都町奉行所配下の五ケ村が担った公役に基づく。つまり、危険な消防に従事せざるを得なかった社会的状況が背景にあった。五ケ村は、牢屋敷の番や掃除、また悪党の捕縛など、行刑や警察に関することを公役とした。その一貫として牢屋敷や役所への火事詰、つまり火災が起こると至急駆け付けることを任務としたのであった(『諸式留帳』、『日本庶民生活史料集成』第十四巻、部落、三一書房、一九七一年)。

 

このような仕事は危険なだけではなく、死のケガレとも関わるとされ、忌避される傾向にあった。五ケ村の人々が担える職務は制約されていたが、特定の任務に従事する権能を有していたとも言える。

 

一八八一(明治十四)年十二月二十七日、東本願寺は「非常事務取扱規則」「消防組取扱条例」を制定し、翌年一月一日に施行された(『配紙』明治十四年十二月条)。幕末の禁門の変による兵火で四度目の焼失に見舞われた両堂を再建していこうとする時期である。ここで消防にあたる人員を、常備消防夫と別手消防夫に分類して配備している。およそ七百人の別手消防夫は五組に編成されたのだが、そのうち三組が、旧五ケ村の人々から成る。

 

まず火事場に駆け付けて危険な任務に携わった経験を持つ五ケ村の人々による熟練した消防技術は、東本願寺をはじめ社会的に信頼が高かったとみられる。これまで一面、社会的に隔絶された身分と見なされがちであったが、周縁部に位置付けられつつも、社会や教団との関係を保持していた。ただしその関係が、差別を温存・再生産することにもつながったことに心すべきである。

 

現代に真宗本廟(東本願寺)が受け継がれてきた背景に、消防へ尽力してきた門徒の存在があったことを記憶に刻んでおきたい。

 

(『ともしび』2021年1月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)

 

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