一人がためなりけり─私が〈わたし〉となるために─
(松下 俊英 教学研究所助手)

 二〇二〇年十月二日、教化伝道研修第三期第一回特別研修がオンラインにて開催されました。当日は、教学研究所嘱託研究員の亀谷亨氏(前・北海道教区教学研究所所長、北海道教区即信寺住職)による講義があり、その後、班別座談及び班別発表が行われました。
 本研修は、「人の誕生」を願いとします。「人」とは、『歎異抄』の「一人いちにんがためなりけり」に依拠し、阿弥陀如来の願いに目覚めることを表します。
 寺院を預かる各個人の抱える課題は様々ですが、「一人」というところに立つことによって、どのような状況にあっても、それぞれの場を荷っていく忍耐、あるいは力が生み出され、またそれが、大きな「導き」となるのではないでしょうか。
 以上のことから、亀谷氏には「一人がためなりけり──真宗同朋会運動の願いに学ぶ──」という講題のもと、仏事や教化に対し、我々はどのような心向きであろうとするのか、講義をいただきました。以下に、講義の主旨を報告します。
 

やっかいな私
 『歎異抄』第十八章に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『真宗聖典』六四〇頁)とあります。亀谷氏は、五劫という、とてつもない時間の長さは、私たちの迷いの深さを表すものだとされました。それは「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」なる私たちの身の事実に頷けない「やっかいさ」を意味します。さらに、我々は「罪悪深重煩悩熾盛」だから救われないのではなく、「罪悪深重煩悩熾盛の身である」と頷けないから救われないのではないか、と亀谷氏は問いかけました。
 親鸞聖人は、その「やっかいさ」に振り回されながらも、教えを聞き続け、教えに照らされる中で「それ以外に私はなかった」と頷かれたのではないか、と氏は言われました。そのことは「されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」という聖人の言葉から窺うことができます。
 他方で、聖人が仰いでおられるのは、真理の法をいただくに至る無数のご縁でもあります。教えに導く人びとの歴史が、途切れなく連綿と続いていたからこそ、ここに教えが届いたということを意味します。そのような深い歴史背景をもって頷かれた「親鸞一人がためなりけり」という目覚めを、「〈わたし〉一人がためなりけり」と頷けるかどうか、それが私たちにかかっています。
 

仏事と教化
 人間は、生まれた意味と生きる喜びを根源的に求めています。亀谷氏は、そのように求める人がおられると本当に知るのは、我々自身の罪業の深さに気づいた時だとされました。すなわち、「〈わたし〉一人」と頷くところに、生きる意味と喜びが見出され、それは一個人だけでなく、他者にもかけられた願いであったと気がつくということです。それを、聖人は「われら」という言葉で示されたのでありましょう。  したがって、寺院の仏事や教化という勤めにたずさわる時、「一人がためなりけり」と頷かれた親鸞聖人のお心に常に還らねば、真宗の仏事や教化にはなりえないのではないでしょうか。  そして、亀谷氏は「苦悩を抱いて生きている人たちに出会い、共に念仏に育てられ、共に本願に導かれる身に立ち続ける。そういう者として生きようとするところに、まさに「一人がためなりけり」という具体性があるのではないか」と締め括りました。
 

研修を終えて
 一人がためなりけり──ここに立つことによって、私が本当の〈わたし〉となり、他者と共に生きようとする身となる。そのような視座が開かれる研修となりました。
 オンライン研修で、聴講しづらい面があったにもかかわらず、研修生には真摯に講義に向き合っていただきました。講義はもちろん、研修生との座談も〈わたし〉のためになりました。ここに感謝の念を申し上げます。
(教学研究所助手・松下俊英)

([教研だより(174)]『真宗』2021年1月号より)