浄土にめざめる

著者:宮城 顗


この前、松任(現石川県白山市)の坂木恵定さんから『破局の展開』という書物をいただきました。その中に仙崖和尚の話が出ておりました。仙崖和尚が臨終のときに、お弟子方が遺言を求めた。そうしたら仙崖和尚が「死にとうない」と書いたというのです。弟子たちは、遺言が死にとうないでは困るので、もう一度遺言を求めた。すると仙崖和尚が、それならばと言ってそのうえに「ほんまに、ほんまに」と書いた。「ほんまに、ほんまに死にとうない」と書かれて、仙崖和尚が死なれたと書かれてあります。

私たちが泣いたり、もがいたり、わめいたり、そういうことで消えてなくなるような仏教なら、なんの力にもならないのでしょう。私たちがどれだけ迷おうと、どれだけわめこうと、私をつつんであるものが仏法なのです。

つまり仏法というものは、迷悟、迷い悟りを超えている。迷い悟りは人間にあることです。仏法は、迷っているものも悟っているものも、等しく内につつんでいるもの。ただ、その内にあるということを、ほんとうにうなずいたのが悟ったということでしょう。迷っているというのは、仏法のうちにあって、自分の思いにこもっている。自分の思いにしがみついているのが迷いなのです。

悟った人にだけ仏法があるのではない。仏法は、迷い悟りを超えて我々をつつんでいる。私たちがどれだけわめこうと、もだえようと、そのことで消えてなくなるような世界ではない。そういうたしかなものということを、仙崖和尚もいいたかったのでしょう。

浄土というのは、親鸞聖人の言葉でいえば、「地獄一定」(『歎異抄』聖典六二七頁)ということなのです。地獄が恐ろしくて求める世界が浄土ではない。地獄というところに立てるのが浄土なのであります。私をして地獄一定とうなずかしめるものが浄土なのです。

ですから、浄土において地獄が生ききれるのです。浄土にめざめたが故に、地獄をゆうゆうと生ききれるのでしょう。

『地獄と極楽』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2017年版⑧)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2017年版)をそのまま記載しています。

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