世のいのりにこころいれて

山陽教区第七組光明寺前住職 玉光 順正さん

 

●命を守るとは

「自分の大切な命、そして大切な人の命を守るために全力を尽くしましょう」という言葉は日本のコロナ対策を色々と考えている人々、政治家であったり、いわゆる専門家と言われる人々などからもよく聞かされた言葉である。

しかし、それらの人々の発言から、その「命とは何か」、という意味を考えさせられることはほとんどないと言ってもいい。何故なのか。命を守るという時、その命そのものとは何か、という根源的な問い、それこそ人々が宗教といってきたことと深い関係があるのではないだろうか。そういう意味で、日本のコロナ現象の中で完全に消えているのが宗教意識である。

これらのことは、コロナ対策に関わる政治家や、いわゆる専門家たちだけの問題ではない。「自分の大切な命、そして大切な人の命を守るために全力を尽くさなければ」と考える、私たち自身も含めての問題でもある。私たちが、守ろうとしているのはどんな命なのだろうか。

 

●専門家とは

ところで、今回のように何かことがあれば必ずと言ってよいほど、専門家と言われる人たちが集められる。集めるのは国家機関、つまり時の政府・政権である。政府は集めた専門家たちの意見を聞いて、問題に対処する。集めるのが政府・政権であるかぎり、政府・政権に都合の悪いと思われる人は、すぐれた専門家であっても、お呼びがかからないし、また集められた専門家のなかでは、無意識であっても、政権に対する忖度が働くことはどうしようもないとも言えるだろう。

当然のことながら、これまでにも、各種専門家は国に対して色々と提言している。しかし近代国家としての日本という国を考えた場合、明治以降の天皇制国家という制約があったということもあり、あるいは戦後でも、その残滓(ざんし)があり、また日本には特有の「世間」というものもある。また、多くの専門家が、専門家としての一番大切な姿勢「国家を問う」という姿勢が甘いが故に、その役割を果たすことができず、その状況をそのまま肯定したり、時にはそれをより一層悪くするような働きさえしてきた、というのがこれまでの結果ではないだろうか。過去の大谷派も深く関わってきた光田健輔さんに主導されたハンセン病問題、また今も続いている3・11以降の原発に関する対策等々。しかしそんな時であっても、小笠原登さんや、京大熊取六人組(※)と言われるような人々は、専門家としての仕事を果たし続けようとされたし、また今もされ続けておられるのである。

これらのことは何を意味しているのか。それは、専門家である前に、ひとりの人間としてどう生きるのかということである。かつて、三國連太郎さんが「人間は無限分の一の存在」と言われたことがある。これは親鸞のいう「自然(じねん)」ということと関連していわれた言葉であるが、それぞれの専門家の人たちが、「無限分の一の存在」、つまりひとりになって、それぞれの専門分野に関わる、それは政治家や官僚たち、そして私たちも含めてであるが、そんなことができることによって初めて、それぞれの専門が生きるのではないだろうか。

これらのことは同時に、私たちにとって国家とは何かということを問いかけている。私の国家というものの定義は「必ず間違うことのある人間(凡夫)が作った最も暴力的な装置」であるが、そのことを意識しつつ、国家と対峙することが、三國さんの言う「無限分の一の存在」ということかもしれない。

 

●念仏者とは

専門家と国家等の関係を的確に指摘してくれているのが、E・W・サイードの『知識人とは何か』である。

「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」。サイードのこの言葉に初めて出会った時、本当に驚いたのである。何故なら、それは親鸞の流罪以降の生き様そのものだからである。亡命者つまり流罪、周辺的存在つまり田舎の人、アマチュアつまり無名、権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手つまり「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」云々。親鸞をよく知っていてもこんなにうまく表現できないなと。

私はこの言葉に出会ってから、「知識人」(念仏者)として再々引用させてもらっている。また、「知識人はいつも、孤立するか迎合するかの瀬戸際に立っている」「知識人の使命とは、つねに努力すること、それも、どこまでいってもきりのない、またいつまでも終わらない努力をつづけるということだ」ともある。まさに念仏者そのものである。

「知識人とは、その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である」とのサイードの言葉こそ、今のような状況の中では一番大切な言葉ではないだろうか。そのことを親鸞は「世をいとうしるし」と言っている。

私たちもまた、このような言葉を意識して生きることこそが、今後専門家と言われる人たちを助けることにもなるだろう。いや、「権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手」は、今回の日本学術会議会員の任命に関する菅政権の姿勢から考えると、いよいよ選ばれなくなっていくのだろうか。

だからこそ、その前にもっと大切なことは、真宗大谷派が念仏者の集団だと言うのなら、過去のハンセン病問題での間違いを繰り返さないためにも、私たち一人ひとりがこのような言葉を意識しながら、コロナ現象に対峙し、そして「ただ念仏」つまり「まことなき世にまことを生きんとする」ことである。

 

※京都大学原子炉実験場(大阪府熊取町)で研究を続け、原発に反対してきた六人の研究者。

 

《ことば》
「人間として 死なせてくれ」
石川勝男さん
(松丘保養園自治会会長)

 

ここ十年来、震災や水害などが起こるたびに「当たり前であることの大切さありがたさ」ということが言われます。確かに、電気・水道・ガスがいつでも使え、日用品や食品を欲しい時に手に入れることができる当たり前の日常は便利です。さらに今年はコロナ禍によりその思いが私たちの中に大きくなったようです。このような時、数年前松丘保養園との交流の場で、石川会長からお聞きした「人間として 死なせてくれ」という言葉を思い出さずにはおれません。

私たちは便利な日常を守るために、それを脅かすものを排除しようとします。これは今に始まったことではなく、歴史が教えてくれる事実です。つまり、私たちが大切にする当たり前の日常の中には「私たちに不利益をもたらすものは、排除してかまわない」ということを含んでいるのです。

どこまでも我が身を良しと可愛がり守り続けていることに気がつかない私。その私が作り出す社会こそが他を差別し排除していく仕組みを生み出しています。「人間として 死なせてくれ」という言葉は、当たり前の日常に痛みも悲しみも持てずにいる私に対する願いの呼びかけです。

(奥羽教区秋田県西組 須田俊孝)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2020年12月号より