弥陀の回向の御名なれば

著者:島 潤二(九州教区仁業寺住職)()


 

もうかれこれ四年前になりますが、あるお寺の報恩講で、「お念仏とは何か」という題で話してほしいとの依頼を受けたことがあります。この依頼を受けて、あらためてお念仏について考えてみました。

私はお寺に生まれ、父の教えにより小さい頃から手を合わせて念仏申すことには親しんでいました。しかし私自身、正直言って「南無阿弥陀仏」と念仏を申すことへの特別な思いはなく、仏事の時などに何気なく手を合わせる程度でした。

その私が本心から念仏しようと思ったことがあります。それは父が亡くなった時です。父は私が二十一の時に亡くなりました。当時学生だった私は親孝行といえるようなことは何一つしてこなかった自分を思い知らされました。そこで、「今さら何もできないけれど、手を合わせて念仏することはできる。小さい頃から習ってきたお勤めをすることはできる」。そう思った私は、ひとり本堂の正面に座り、「本気で」手を合わせ、念仏し、お勤めをしました。

善を他のために回らし向けることを「回向」といいます。私は念仏を亡き父のために回向しようとしたのです。その功徳が父のためになるようにと思って、一所懸命に念仏したのです。このような私が父のために称えた念仏を、親鸞聖人は「自力の回向」と教えてくださいます。

この自力の回向で、問題になることがあります。それは回向する主体の側の心のありようです。つまり、心を真実にして集中した念仏には功徳があるけれども、念仏に確信がもてない人の念仏には功徳がないのではないか、ということです。最近、お葬式や法事・法要などの席でお念仏の声が聞こえなくなりました。もしかするとそのことは、この問題が関係しているかもしれないと思っています。「念仏に確信がもてない私が念仏しても、亡くなった人のためにはならないのではないか。ならば念仏申すのはやめておこう。お寺さんにまかせよう」と。そう思って念仏申さない人が増えているのではないかとも思うのです。


親鸞聖人は「弥陀の回向の念仏」ということを教えてくださっています。私は父のために念仏を回向しようとしました。念仏を回向する主体が、凡夫である私でした。その私には真実なるものはありません。ですからたとえ一時的に「本気で」念仏したとしても、時とともにその思いは薄れていってしまいました。そうではなく、念仏は阿弥陀如来が真実心をもって、われら凡夫に回向してくださったもので、回向の主体は阿弥陀如来だというのです。如来が苦悩する私たちの救済を念仏一つに託して回向なさっているのが念仏だというのです。

無慚無愧のこの身にて

  まことのこころはなけれども

  弥陀の回向の御名なれば

  功徳は十方にみちたまう

  
(『正像末和讃』・真宗聖典五〇九頁)

どうぞ念仏してください。まずは、念仏申してください。念仏申す前に「自分の信心は」と問題にすることはありません。念仏は如来が与えてくださり、亡くなった人もすすめていてくださるものです。そのすすめを聞いて念仏すれば、その功徳は亡くなった人にも、私自身にも、またその声を聞く人たちにもおよびます。この和讃はそう教えているように思います。

私の小さい頃の念仏も、父が亡くなった後の念仏も大事な意味があったことを思い、あらためて親鸞聖人の教えに対する御恩を感じています。

東本願寺出版発行『報恩講』(2019年版)より

『報恩講』は親鸞聖人のご命日に勤まる法要「報恩講」をお迎えするにあたって、親鸞聖人の教えの意義をたしかめることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『報恩講』(2019年版)をそのまま記載しています。

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