2021年9月、しんらん交流館交流ギャラリーでは、「親鸞聖人と本廟創立-小早川好古が描く」の企画展示をいたしました。展示では、小早川秋聲・好古の父鐡僲の故郷・鳥取県からも好古の描かれた親鸞聖人の生涯の絵を見たいとご覧いただいた方もいらっしゃいました。「見たいけれども遠いので残念ながら見に行けない。」との声もいただいておりました。
 このたび、ホームページでも公開してほしいというご要望にお応えし、あらためて、親鸞聖人と本廟創立-小早川好古が描く(しんらん交流館ホームページ版)としてギャラリー展で展示した、絵画の写真と解説文で公開させていただきます。 2023年は親鸞聖人が御誕生して850年です。真宗大谷派(東本願寺)では、親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要を、慶讃テーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」のもと(第1期法要)2023年3月25日~4月8日、(第2期法要)2023年4月15日~29日で厳修します。あらためて、親鸞聖人の御生涯に学び、いっしょに慶讃法要をお迎えしましょう。

【親鸞聖人と本廟創立-小早川好古が描く】

(しんらん交流館ホームページ版)

【1 出 家】

 浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、平安時代の末期、一一七三(承安(じょうあん)三)年に、京都でお生まれになりました。幼名は、「松若丸(まつわかまる)」とも「十八公麿(じゅうはちこうまろ)」とも伝えられています。

父親は、日野(ひの)有範(ありのり)という貴族でした。母親については、「吉光女(きっこうにょ)貴光女(きっこうにょ))」という伝承(でんしょう)もありますが、さだかではありません。

親鸞聖人の幼少期は、源氏と平氏が覇権(はけん)を争う戦乱の時代でした。また、台風や大地震、洪水などの自然災害が多発し、特に、一一七七(安元(あんげん)三)年の大火災で都の三分の一が焼失、一一八一(養和(ようわ)元)年には死者が四万人を超す飢饉(ききん)が発生するなど混乱と荒廃(こうはい)に満ちた時代でした。そして、人々はいよいよ世の中が(おとろ)え救いのない「末法(まっぽう)の世」だと(おそ)れおののきました。

幼いころに両親と離れられた聖人は、九歳の春、伯父の日野(ひの)範綱(のりつな)にともなわれ、後の天台座主(てんだいざす)慈鎮和尚(じちんかしょう)慈円(じえん))のもとで出家されました。

親鸞聖人の出家(しゅっけ)については、一つの伝承(でんしょう)があります。

親鸞聖人が慈鎮和尚のもとに夜遅く到着されたからでしょうか、慈鎮和尚は「今日は遅いので、出家の式は明日にしましょう」と言われました。そのとき、親鸞聖人は次のような和歌(わか)()まれました。

明日ありと おもうこころの あだ桜

       夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは

【現代語訳】

明日ありと 思う心は はかなく散る桜のよう

    夜中に嵐が 吹かないことはないのだから

人間の命を桜の花にたとえてつくられたこの和歌には、「人間の命は、明日があると言えないから、今すぐに出家させてほしい」という願いがこめられています。この和歌を聞いて感動した慈鎮和尚は、すぐに出家の式をおこなったと伝えられています。

2 六角堂参籠

出家をされた親鸞聖人は、範宴(はんねん)と名のられました。それから二十年もの間、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)堂僧(どうそう)として厳しい修行と学問にはげまれました。堂僧とは、延暦寺の常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)で阿弥陀如来のまわりを歩きながら、ひたすら仏の名を唱え続ける僧のことです。

親鸞聖人は修行に打ち込みましたが、(さと)りに(いた)る道を見出すことができませんでした。悩み抜かれた親鸞聖人は、一二〇一(建仁(けんにん)元)年、二十年に及ぶ比叡山での修行をやめて下山を決意されました。

二十九歳の親鸞聖人は、比叡山の仏教と決別し、歩むべき道を求めて聖徳太子(しょうとくたいし)ゆかりの六角堂に百日間こもられました。その九十五日目の(あかつき)、夢に聖徳太子のお()げをうけられました。

聖徳太子は、深く仏教を信仰して仏教が広まるようにさまざまな活動をしましたが、自身は僧侶になりませんでした。親鸞聖人は、そのような聖徳太子のすがたに、それまでの出家中心の仏教とは違う、新しい仏教のあり方を求められていたと思われます。親鸞聖人は、この夢告にみちびかれて、法然上人のもとをたずねられます。

【3 親鸞聖人と聖徳太子】

聖徳太子(しょうとくたいし)は、五七四(敏達(びんたつ)三)年に後の用明(ようめい)天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしとのひめみこ)の長子として誕生しました。  聖徳太子が生きた時代は、日本に仏教や大陸の文化が伝来し、新たな国づくりを目指した時期でした。そのような中で、推古(すいこ)天皇の摂政(せっしょう)となった聖徳太子は、「冠位(かんい)十二階」を定めて実力がある人材を登用し、また、日本で初めての法である「十七条憲法」を制定するなど、仏教を根幹とした新たな政治体制を作りました。そして、四天王寺(してんのうじ)法隆寺(ほうりゅうじ)をはじめとする寺院の建立や、『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『維摩経(ゆいまきょう)』『法華経(ほけきょう)』の注釈書である「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を撰述(せんじゅつ)するなど、仏法の興隆(こうりゅう)に生涯をつくしました。

親鸞聖人は、聖徳太子を父母のように(うやま)い、聖徳太子の和讃を二百首以上作られています。

その和讃の一つに、

和国(わこく)の教主聖徳皇(しょうとくおう)  広大(こうだい)恩徳(おんどく)(しゃ)しがたし  

  一心(いっしん)に帰命したてまつり  奉讃不退(ほうさんふたい)ならしめよ

があります。「教主」とは、本来仏教の開祖である釈尊をあらわす言葉ですが、親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主」と呼んで、日本仏教の開祖であると讃仰(さんごう)されました。

※「聖徳太子」は後につくり出された呼称であり「厩戸皇子(厩戸王)」であるとも言われていますが、展示では親鸞聖人が大切にされた聖徳太子の呼称を用いています。

【4 流罪と越後国府】

法然上人の専修(せんじゅ)念仏(ねんぶつ)の教えには、親鸞聖人だけでなく、老若男女、身分を問わず、たくさんの人々が帰依(きえ)しました。しかし、学問や戒律(かいりつ)などのあらゆる修行を必要としない専修念仏の教えは、延暦寺(えんりゃくじ)興福寺(こうふくじ)などの他宗から強い反発をうけることになりました。

そのような状況の中で、後鳥羽上皇が熊野(くまの)(和歌山県)に参詣(さんけい)中に法然上人の弟子が上皇の女官(にょかん)出家(しゅっけ)させてしまいました。上皇はこれに激怒(げきど)し、また、他宗による専修念仏への批判も大きかったことから、朝廷は念仏の禁止の決定を下します。そして、門弟のうち四名が死罪、八人流罪(るざい)という処罰(しょばつ)が下されました。それにより、法然上人は土佐(とさ)(高知県)へ、親鸞聖人は越後(えちご)(新潟県)へ流罪となります。そして、僧籍を取り上げられ、俗人の藤井善信(ふじいよしざね)として流罪となった後は、「僧に(あら)ず俗に非ず」という自身の立場から「愚禿(ぐとく)親鸞」と名のられました。

越後でどのような生活をされていたのかは定かではありませんが、妻の恵信尼(えしんに)も同行されたようで、越後では息子の信蓮房明信(しんれんぼうみょうしん)が誕生しています。親鸞聖人は、一二一一(建暦(けんりゃく)元)年に赦免(しゃめん)となりますが、しばらく越後にとどまり、一二一四(建保(けんぽ)二)年頃に家族とともに関東へ旅立たれました。

【5 『教行信証』の執筆】


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関東に到着された親鸞聖人は、下妻しもつまに三年ほど逗留とうりゅうされた後に稲田の草庵そうあんに移り住みます。そして、稲田の草庵を拠点に約二十年間、関東で教えを広められました。この頃は、鎌倉幕府が成立して約三十年が経ち、関東が政治や経済の中心になりつつありました。そのような中で親鸞聖人は、下総しもふさ(千葉県)や下野しもつけ(栃木県)にまで足を運び、教えを広めました。親鸞聖人のもとには多くの人々が集い、その教えと生き方は、広く伝わっていきました。
そして、一二二四(元仁げんにん元)年を契機けいきに、親鸞聖人は『教行信証きょうぎょうしんしょう』(『顕浄土けんじょうど真実教行証しんじつきょうぎょうしょう文類もんるい』)をこの地で書き進められました。『教行信証』を執筆するにあたり、親鸞聖人はたくさんの経典などから学び、何度も筆を加えながら進めていかれました。
その後、親鸞聖人は京都に家族とともに戻ります。その理由は、『教行信証』を完成させるためであったとも言われています。京都に移った後も、『教行信証』に加筆修正が行われていたことが分かっており、晩年まで何度も見直されたことがうかがえます。

【6 本廟創立】

親鸞聖人は、一二六二(弘長(こうちょう)二)年十一月下旬に体調を崩され、弟の尋有(じんう)の住まいである善法坊(ぜんほうぼう)に身を寄せられました。病床に()してからは、自身の話や家族の話など世間的なことは口にせず、ただひたすら念仏を(とな)え続けられていたといわれています。

そして、十一月二十八日、ついに親鸞聖人は九十年の生涯を終えられました。末娘の覚信尼(かくしんに)ら家族や門弟がその死を看取り、葬儀を行った後、京都東山の延仁寺(えんにんじ)荼毘(だび)に付されたと伝えられています。

遺骨(いこつ)は、大谷(京都市東山区)に小さな石塔が建てられ埋葬(まいそう)されました。しかし、それはきわめて簡素なものであったため、十年後の一二七二(文永(ぶんえい)九)年、大谷の西、吉水の北にある土地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂(びょうどう)が建てられました。そして、ここに親鸞聖人の影像(えいぞう)安置(あんち)され、遺骨も移されました。この廟堂が、真宗本廟(東本願寺)の御影堂(ごえいどう)へと受け継がれていきます。

大谷廟堂の土地は、覚信尼が所有していましたが、誰か一人が廟堂を自分のものとしないように、この土地を寄進(きしん)して、門弟と共有し、覚信尼が廟堂をあずかる留守職(るすしき)につきました。

【7 覚如上人と本願寺】

廟堂(びょうどう)を守る留守職(るすしき)の継承は、門弟の了承を得て、覚信尼(かくしんに)の子孫が就任することとなっていました。そして、覚信尼が没すると、その子である覚恵(かくえ)が留守職を継ぎました。しかし、廟堂の土地の相続をめぐって異父弟の唯善(ゆいぜん)と争いが起こりました。争いのさなかに覚恵は亡くなりましたが、その遺志は覚恵の長子である覚如(かくにょ)上人に引き継がれ、最終的に青蓮院(しょうれんいん)裁定(さいてい)により覚如(かくにょ)上人が勝訴(しょうそ)しました。

廟堂をあずかることになった覚如上人は、本願寺第三代として、廟堂の寺院化を試み、「本願寺」と名のるようになりました。後に本願寺は、第七代存如(ぞんにょ)上人の時に、本尊を安置する阿弥陀堂と、親鸞聖人の影像(えいぞう)を安置する御影堂(ごえいどう)が建立され、現在の両堂の形式となります。

また、覚如上人は、親鸞聖人の教えをより多くの人々に伝えるため、親鸞聖人の三十三回忌に合わせて、親鸞聖人の遺徳(いとく)(たた)える「報恩講式(ほうおんこうしき)」を撰述(せんじゅつ)し、翌年には、親鸞聖人の生涯を絵巻物にまとめた『親鸞(しんらん)伝絵(でんね)御伝鈔(ごでんしょう))』を(あらわ)しました。その他にも門弟が親鸞聖人の様々な教えを広めることを(うれ)異端邪説(いたんじゃせつ)を批判し改めようとした『改邪鈔(かいじゃしょう)』や、如信上人が親鸞聖人から教えられた内容を書きとめた『口伝鈔(くでんしょう)』を著しました。

【8 綽如上人と北陸布教】

【綽如上人と北陸布教】

本願寺は覚如上人から第四代善如(ぜんにょ)上人と引き継がれ、そして、綽如(しゃくにょ)上人が父善如上人の後を受けて本願寺第五代になったのは、一三七五(永和(えいわ)元)年二十六歳の時でした。当時は関東では高田(たかだ)門徒が、西日本では仏光寺(ぶっこうじ)門徒が勢力を拡大しており、本願寺を圧倒していました。そのため、綽如上人は、親鸞聖人の教えが広まっていなかった北陸地域に(おもむ)いて教えを伝えることにしました。

綽如上人は聡明(そうめい)な人物としても知られており、朝廷(ちょうてい)に届いた(みん)(中国)からの難解な手紙を読み解き、それに喜んだ後小松(ごこまつ)天皇から寺院の建立を認める勧進状(かんじんじょう)が出されたと伝えられています。

そして、寺院を建立する場所として、綽如上人は越中(富山県)の井波(いなみ)を選びました。井波はもともと聖徳太子(しょうとくたいし)(うやま)う太子信仰が根付いており、綽如上人は、その太子信仰とともに歩んでいく真宗を開いていきたいとして、この地に瑞泉寺(ずいせんじ)を建てられたといわれています。

その後も、第六代巧如(ぎょうにょ)上人、第七代存如上人と北陸地域に重点を置きました。この布教(ふきょう)素地(そじ)となり、やがて第八代蓮如(れんにょ)上人によって、広く親鸞聖人の教えが広がり、北陸地域は「真宗王国」ともいわれるようになります。

【9 大谷破却】

第八代蓮如(れんにょ)上人は一四一五(応永(おうえい)二十二)年に誕生されました。蓮如上人の生きた時代は応仁(おうにん)の乱などの戦乱や、相次ぐ災害による大飢饉(だいききん)餓死者(がししゃ)が町にあふれるなど混迷の時代でした。

父の存如上人の跡を継いだ蓮如上人は、京都大谷の本願寺の基盤を確かなものにするため、また、親鸞聖人の教えに立ち返るため、天台宗など他宗の影響を受けた教えを退け、僧侶・門徒の区別なく教えを身近に受けられるよう、様々な手法を用いて親鸞聖人の教えを広めました。

また、木像(もくぞう)や絵像が主流の時代に、より多くの人が本尊にふれられるように、「木像より絵像、絵像より名号(みょうごう)」として、六字名号「南無阿弥陀仏」、九字名号「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」などの名号を門徒をはじめ多くの民衆に授与しました。特に六字名号は、一日に三〇〇枚も書き、門徒に授けたとも言われ、名号を本尊として念仏する生活を広めました。

蓮如上人の教化のもと大きく発展した教団は、他宗の反発を招きました。一四六五(寛正(かんしょう)六)年、比叡山(ひえいざん)の衆徒によって大谷の本願寺は壊滅し、以後各地を転々とすることになります。

【10 山科本願寺】

大谷の本願寺破却(はきゃく)後、蓮如(れんにょ)上人は近江(おうみ)金森(かながもり)(滋賀県)の道西(どうさい)のもとに身を寄せます。翌年、琵琶湖の交通の要所である堅田(かたた)に拠点を移すも、一四六八(応仁(おうにん)二)年に、戦乱を避けるとともに新たな地で教えを広めるために三河(みかわ)(愛知県)に(おもむ)きました。そして、一四七一(文明(ぶんめい)三)年に親鸞聖人の御影(ごえい)を大津に安置して、越前(えちぜん)吉崎(よしざき)(福井県)に赴いて、吉崎御坊(よしざきごぼう)を建立します。

吉崎での蓮如上人は、村々を訪ねて、教えを広めるとともに、人々が寄り合う(こう)をつくることを勧めました。旅することが多かった蓮如上人は、親鸞聖人の教えを分かりやく書いた手紙を各地の(こう)に送り、その手紙(『御文(おふみ)』)を講で拝読(はいどく)するように伝えました。これにより、難解な字が読めない人々も真宗の教えに触れるようになり、各地に教えが広まりました。そして、多くの人々が集うようになった吉崎御坊の周辺には宿坊(しゅくぼう)が立ち並び、一大宗教都市へと変貌(へんぼう)しました。

一四七五(文明七)年に吉崎を退却した蓮如上人は、一四七九(文明十一)年に京都山科(やましな)に本願寺を、一四九六(明応(めいおう)五)年には大坂(おおざか)御坊(大坂本願寺)を建立しました。そして、一四九九(明応八)年、八十五歳で亡くなるまで、近畿、北陸、東海など各地で真宗の教えを広めました。

【11 石山合戦】

蓮如(れんにょ)上人の教えが北陸に広まり一大勢力となった頃、室町幕府の衰退(すいたい)により守護(しゅご)が各地で覇権(はけん)を争い、民衆が一揆(いっき)を起こすなど戦乱の時代になっていました。そして「一向宗(いっこうしゅう)」とも呼ばれた真宗門徒は、その勢力を脅威に感じた守護などから弾圧(だんあつ)され、信仰を守るため各地で一向一揆を起こします。

一方、本願寺は、一五三一(天文(てんぶん)元)年に法華衆徒(ほっけしゅと)らに山科(やましな)本願寺を焼かれ、大坂(おおざか)石山(いしやま))へ移りました。大坂へ移転した本願寺は経済力や武力を持つ宗教都市となって大いに繁栄しましたが、それは、一向一揆とともに織田(おだ)信長(のぶなが)の全国統一を(はば)むこととなり、やがて戦いとなりました。

本願寺と信長の戦いは、一五七〇(元亀(げんき)元)年に始まりました。各地の一向一揆は次第に信長に退けられ、特に伊勢(いせ)長島(ながしま)(三重県)一向一揆では二万人の犠牲を出しました。そして、一五七六(天正四)年、信長は大坂本願寺へ総攻撃を開始します。補給路(ほきゅうろ)も断たれた本願寺は籠城(ろうじょう)も困難になりました。そして、和平交渉の結果、一五八〇(天正八)年信長との間に和睦(わぼく)が成立し、第十一代顕如上人をはじめ主だった人々は紀州(きしゅう)鷺森(さぎのもり)(和歌山県)へと移りました。そうした中、顕如(けんにょ)上人の長子の教如(きょうにょ)上人は徹底抗戦(てっていこうせん)を訴え、意見をともにする人々と籠城を続けましたがやがて退去することになります。

【12 東西分派と東本願寺創立】

石山合戦では、顕如(けんにょ)上人は織田信長の和議(わぎ)を受け入れ退去しましたが、息子の教如(きょうにょ)上人は徹底抗戦(てっていこうせん)を主張しました。その意見の対立により、顕如上人から親子の関係を断たれます。

教如上人は四ヵ月後にやむなく大坂を退去しますが、義絶された身で父と会うことはかなわず東海・北陸地方を流浪することになりました。そして、一五八二(天正一〇)年本能寺の変で信長がたおされると、顕如上人と教如上人は和解(わかい)をしました。その後、豊臣秀吉から京都の六条堀川の土地を寄進(きしん)をうけて、本願寺(現在の西本願寺)を建立しました。

一五九二(文禄(ぶんろく)元)年、顕如上人が亡くなり、長子であった教如上人一旦は本願寺を継承しました。しかし、翌一五九三(文禄二)年、母の如春尼(にょしゅんに)が、三男の准如(じゅんにょ)上人への継承を秀吉に訴え、秀吉から認められたことから、准如上人が本願寺を継承し、教如上人は隠居(いんきょ)することとなりました。その間も教如上人を慕う人々が数多くおられ、隠居前と変わらない活動をしていました。その後、一六〇〇(慶長(けいちょう)五)年、関ケ原の戦いに勝利し、二年後に征夷大将軍となって幕府を開いた徳川家康から烏丸(からすま)六条の土地の寄進をうけた教如上人は、新たに本願寺を別立し、これが現在の東本願寺となりました。

【13 再建の軌跡】

一六〇三(慶長(けいちょう)八)年、上野(こうずけ)(群馬県)妙安寺から親鸞聖人影像を迎え、同年阿弥陀堂を、翌年には御影堂を建立しました。しかし、今日まで真宗本廟(東本願寺)は、四度の焼失に見舞われます。

最初は一七八八(天明(てんめい)八)年の京都大火により焼失し、二度目は一八二三(文政(ぶんせい)六)年に境内からの失火により焼失しました。三度目は一八五八(安政(あんせい)五)年に東本願寺北側の民家からの出火で焼失しました。これらの再建には、全国の門徒の尽力ともに、徳川幕府より用材の提供などの協力があり迅速(じんそく)に進められました。特に三度目の焼失では、一八六一(文久(ぶんきゅう)一)年に親鸞聖人六百回御遠忌を(ひか)えていたため再建を急ぎ、わずか一年半で建立しました。

そして四度目の焼失は、一八六四(元治(げんじ)元)年の禁門(きんもん)の変の出火によるものでした。焼失した時は幕末の動乱期であり、その後に樹立した明治政府が神仏分離(しんぶつぶんり)令を発したため各地で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起こりました。そのような厳しい状況の中で再建は進められましたが、全国から木材や瓦や畳などが寄付され、また、数多くの人々が東本願寺に集まり親鸞聖人の教えを聞きながら再建の作業にあたったため、両堂は一八九五(明治二十八)年に再建され、今にまで引き継がれています。

このページは、2021年9月1日から11月15日まで開催した「親鸞聖人と本廟創立ー小早川好古が描くー」の絵画とキャプションをもとに作成しています。

「親鸞聖人と本廟創立ー小早川好古が描くー」

●期 間:2021年9月1日(水)~11月15日(月)

 ●休館日:毎週火曜日

※緊急事態宣言中は、土日休館、平日は17時までとなっております。

●会 場:しんらん交流館一階ギャラリー

●協 力:鳥取県日南町美術館

【開催にあたって】

昭和初期から戦後にかけて多くの宗教画を手掛けた日本画家の小早川好古は、1888(明治21)年、小早川鐡僲とこうの次男として生まれました。本名は景若丸といい、兄は日本画家の小早川秋聲です。好古は幼少期、父鐡僲が真宗大谷派(東本願寺)の経理職についていたため、京都で過ごしました。

 1895(明治28)年には得度して光德寺の衆徒となり、その後、真宗京都中学校(現在の大谷中学高等学校)に入学し、1906(明治39)年に卒業するなど、幼い頃から親鸞聖人の教えを学ぶ機会に恵まれていました。その後、好古は京都絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)を首席で卒業し、教師をしつつ、京都で宗教画などを描いていました。そして、1961(昭和36)年の宗祖親鸞聖人700回御遠忌法要にあわせて、東本願寺の大谷婦人会館を建設するこことなった際に、大谷婦人会から好古に親鸞聖人のご生涯をテーマとした作画を依頼しました。

 当時の大谷婦人会事務長であった常本憲雄は、館内で親鸞聖人のご生涯をめぐることができるよう、大谷婦人会館の各部屋の名称を「日野の間」「比叡の間」「磯長の間」「吉水の間」「国府の間」「越路の間」「稲田の間」と名付けました。そして、好古に依頼した親鸞聖人の絵が出来上がって設置された時、常本事務長は、「この会館は、極めて近代的な建築様式であるが、その骨肉となるものは、聖人へのつきせぬ思慕と渇仰とにあることが明らかにされた」と話しています。

 

このたびは、大谷婦人会館から引き継がれた好古の絵画を味わっていただくとともに、親鸞聖人のご生涯を紹介します。

 また、あわせて、同朋会館に保管されている真宗本廟(東本願寺)の創立にかかる、好古の作品もご覧いただき、東本願寺に親しんでいただければ幸甚です。

 このたびは、東本願寺所蔵の親鸞聖人生涯5点と、真宗本廟(東本願寺)創立までの8点を展示し、描かれた絵から、親鸞聖人の生涯と東本願寺の歴史を紹介します。

  最後に、開催にあたって、鳥取県日南町美術館の浅田裕子様には多大なるご協力をいただきましたこと御礼申し上げます。

 絵画のほかに、関連する書籍も置いてありますので、お手に取ってご自由に御覧いただけます。

 小早川好古の郷里鳥取県日野町の隣町日南町には、森の中に建つまちの美術館日南町美術館があります。小早川好古・小早川秋聲の作品を多数所蔵していますので、ぜひ訪ねてみてください。

 また、8月7日(土)から9月26日(日)まで、京都文化博物館にて、小早川秋聲の展示が開催されております。詳細は京都文化博物館公式ホームページをご覧ください。➡2021年開催されました

 《鳥取県日南町美術館の公式ホームぺージはコチラ

 《京都文化博物館の公式ホームページはコチラ

〈小早川好古略歴〉

 1888(明治21)年生まれ。本名は影若丸。兄は日本画家の小早川秋聲。1895(明治28)年に得度。1906(明治39)年、真宗京都中学校(現在の大谷高等学校)を卒業。1919(大正8)年に京都絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)へ入学し1922(大正11)年、同校を首席で卒業。以後は師を持たず、在野の宗教画家として活動。代表作である大阪の叡福寺《聖徳太子伝絵》壁画をはじめ、数々の作品を残す。1971(昭和46)年京都にて83歳で死去。